2008年6月9日月曜日

toi "あゆみ" 稽古場再襲撃

08/06/2008
再び toi の稽古にお邪魔した。
夕方お邪魔して結局稽古が終わるまで、延々、正味4時間稽古場に居座っていたが、全く飽きない。大変幸せな時間を過ごさせていただいた。

お暇した後も、実は芝居のことをずーっと考えていて、ちょっと興奮が醒めない部分もあったのだが、これ以上引っ張ると忘れるので、取り急ぎ書き留める。

・ まず、稽古が進んだ結果だと思うが、役者が保っている緊張感のレベルが明らかに上がっていた。もちろん、力が入っているというわけではなく て。前は手を抜いていた、というわけでもなくて。まずはそれが良い。「あゆみ」は、スッごく役者に負担がかかる芝居だと思う。役者、頑張っている。
・ 端田さんのシーン、稽古だというのに、涙が出てきちゃったよ。
・ 野上さんがサジェストした新しいシーン、素晴しい。身をよじって笑った。こんなにも「個」がくっきりと見えて、しかもそれが、ややもすると紋 切り型に落ち込みそうなところからハジけて出てくるのが、どうにも観ていて楽しいから。それを苦もなく軽やかに拾い上げる野上さんの才能恐るべし。
・ まだまだこまか~いところまで、本当に飽きずにいくらでも観ていられたし、いくらでも面白ポイント列挙できるんだが、ネタバレになるのもなんなので、これくらいで止める。

だが、本当は、24時間ずっと考えていたのは、演出柴氏の発言2つで(不正確だったら柴氏に申し訳ないが):
① 青年団って、個別のシーンをそれぞれ稽古して、いきなり通したり、するじゃないですか。「あゆみ」はそれができないんですよね。
② 「あゆみ」を観ている観客が、そこから好きなように妄想/想像を巡らし、物語を創り出せるようにしてあげることが目標。

むむむ。②の発言にはシビれた。なぜなら、それは僕が観客として芝居の創り手にもっとも求めている態度ドンピシャだったからです。ウソだと思ったらこれを読んで下さい。たぶん似たようなことを言っている(つもりだった):
http://tokyofringeaddict.blogspot.com/2007/10/love3.html

また、こういうことも考えた:
A 物語を紡ぐ上で、「タイムラインを繋ぐ」作業は、暗転やシーン転換の中で、観客が(少なくともフラッシュバックとかを多少は経験している観客 が)割と自由に行える作業である。つまり、演じている側は、タイムラインの操作をある程度客に任せちゃっても、芝居は成立する。けだし、柴氏の①発言。
B. 一方、「あゆみ」の役者は、集団として、「集中を切らさない」こと、「タイムキープし続けること」を求められていて、これはしんどい。 だって、観客が内面でタイムラインを勝手に処理してくれていた材料を、剥ぎとって、その代りに、タイムラインを一本通す作業が全部役者に押し付けられてい るからです。
C. しかも、そのタイムラインは、途切れちゃいけないのに、時々ワープする。一幕もの芝居のタイムラインと訳が違う。
D. で、その上に乗っかって、柴氏は、「観客に身を乗り出してみてもらう。勝手に物語への想像を膨らませてもらう」と言ってる訳で(上記②)、 これは、常日頃、ディスクリートなシーンの中で妄想スイッチを探して血眼になっている小生のような観客にとっては、堪えられない新たな挑戦である。妄想/ 想像がとんでもない膨らみ方をするのではないか、と期待が大きくなる。

本番、ちょっと、とんでもないことになりそうな予感がする。

あ、それと、柴氏の演出家としての解像度の高さ+同時に広角で捉えることのできる能力に素直に感服。と同時に、前日に見たブラジルから来た芝居の 解像度の低さと、それだからこその力強さ(というか、適当なことの強み)を比べざるを得なかったのも本当で、そうすると、本番どういう解像度の芝居になる のか、それも楽しみだ。

てなことをここまで文章にするのに24時間かかって、かつ、後で読み返して意味を成すかも自信がない。自分の脳力・考える体力・キレがあからさまに低下しているのを感じる。
自分に残された時間は本当に少ない。 焦る。

あ、そうそう。というわけで、toiの「あゆみ」、本当にお奨めです。僕は4時間観てても飽きませんでした。アゴラで1時間30分、飽きる訳がない。
http://toizuqnz.exblog.jp/

2008年6月8日日曜日

SPAC かもめ・・・プレイ

07/06/2008 ソワレ

新宿西口からバスで3時間、静岡は舞台芸術公園まで日帰りで往復。ブラジルからやって来た「かもめ」+会場前のブラジル料理屋台。言った甲斐はと問われれば、楽しかった、と答えよう。でも、魂を揺さぶられたりするような経験とまではならなかった。

一番印象に残ったのは役者達の余裕、緩さ、それに伴う強さ。開場すると既に稽古場に見立てた舞台上に役者達がいて、そこから観客席をぐるりと見回す余裕にまずは恐れ入る。

この、「稽古場」という状況設定はなかなかイカしていて、
・ 「かもめ」そのものがそもそも劇中劇を持っているので、稽古場を入れると全体の入れ子が「劇中劇中劇」にできる。その行き来が、単純に面白い。
・ クサい芝居に入り込んだ役者を、他の役者がニヤニヤして眺めていることが出来る。役者が「演じる」あるいは「演じることを演じる」ことに対する抑止力が、芝居の構造の中に用意されている。
・ 役柄を固定しなくて良い。1人3役、3人1役、その辺りをゆるーく組みまわすことが出来る。役者の身体をテクストに縛らなくても、場として成立させることが可能になる。

そうやって、舞台の上に色々なズレを生じさせようとしていたように思われる。
そういう問題意識は、おそらく、日本の現代演劇にも共通のものだと想像された。

ドライヤー=銃、トマト=脳味噌、盆栽=ヘルメット=かもめ、杖=骨、といった見立てのオンパレードは勿論楽しいし、ラジコンヘリコプターやマックを使ったプロジェクター等、ガジェットもたっぷり。そういう遊びの要素がふんだんに織り込まれているのも楽しくて、観客を惹きつける。

何だけれど、そういうガジェットものの使用や、「役者」がテレビの仕事について話したりするくだりは、どうも、「かもめを現代に近づけて解釈してみよう」というありきたりな試みと紙一重で、これに、ラスト近く、
「あ、これ、役に入れ込んじゃってるよ」
と思わせる部分と重なると、ちょっと苦しい、というか、折角の「クサくならないために嵌められたフレーム」に台無し感あり。やはり、ぐっと入ってはいけないのだ。

なので、最後まで見通した印象は、この芝居、(陳腐な物言いで恐縮ながら)脱構築ではなく、再構築に近いな、ということである。おんなじことを日本の若い演出家が思いついていたら、もっと過激でシャープな芝居になっていたのではないかと思われた。

一方で、そこら辺の緩さが強みなのかもしれない、という印象もある。これくらいの緩いつくりだからこそ、本番中に客席が壊れたり、舞台袖に入って行っちゃうお客さんがいたり、大きな蛾が舞台を横切ったり、観客席でフラッシュたいたり携帯を耳に当てたりしてても、芝居が壊れることなく最後までグルーブできちゃうのだろう。

同じ問題意識を持っていても、方法論だけで突っ走るのではなく、うまくゆるく組み立てることで、より広い観客を惹きつけながら芝居の醍醐味を味わえる舞台に仕上げることが出来るってことか・・・うーん、なんだかお勉強みたいになってしまった。

乞局 杭抗

06/06/2008 ソワレ

これが、予想に反して、つまんなかったんである。出演者をはじめ多くの方が気を悪くするかもしれないが、つまんなかったんである。そして、この乞 局という劇団、作・演出・役者・舞台美術、全てにおいて力がある劇団だと思っているだけに(今も思っているだけに)、余計に、残念なのである。

「媚励」を観たときには「これを面白いと思えないのは向き・不向きのせいではないか」と思ったのだが、今回観て、つまんなかったのは「向き・不向き」のせいではなかったと思い始めている。

端的に言えば、
「居心地の悪い状況にいること対して、役者がちっとも居心地悪そうでない、むしろ安住している」
のがとてもつまんなかったのだ。

人を殺しても、殴っても、強姦しても、精液飲んでも、訳の分かんない叫び声挙げても、別にいいんだけど、
「観客さん、観ていて居心地悪いでしょ?」
と親切に記号で見せてもらっても、ちっとも居心地悪くならない。
いや、悪くなるか。「はい、居心地悪くなってください」という押し付けに対して。

僕がワクワクするのは、状況が異常であれ日常であれ、そこに居心地の悪さが、あるいは、裂け目が、出てくる瞬間で、それは、役者がどれだけ舞台に立っていること、この世にいること、等々に対して居心地の悪さを自覚しているかに拠っていると思うのだ。

1つ例を引くと、木引優子、「陰漏」ではとっても普通で異常で観ていて気持ちよかったのに、今回は変な人の記号だった。その差、一事が万事。それが、「陰漏」が面白くて「杭抗」がつまんないポイントです。僕にとっては。

2008年6月2日月曜日

あなざーわーくすワークショップ

今年3月、大阪でのあなざ事情団の家族ぐるみワークショップに引き続き、あなざーわーくすのワークショップ3回目の参加。はっきり言って、はまっている。わたなべなおこ氏はヨガにはまっているらしいが、小生も3ヶ月の間に3回ワークショップ受けているのだから、はまっているといっても差し支えない。

会場が練馬区春日町。僕は学生時代4年間春日町に住んでいたので、一個手前の駅で降りて、かつて住んでいたアパート経由で現地まで歩いた。住んでいたアパートは表札も変わっていて、なんだか、事務所兼社宅みたいな風情であった。夜勤のバイトをしていた「都内で最も儲かっていないファミリーマート(当時)」のあったところにはトイザラスが建っていた。

ワークショップは、もちろん、今回も楽しかった。あっという間の3時間。
同じグループの人にやたらめったら現代口語演劇の人がいて、「いつもどんな芝居をしてらっしゃるんですか?」と聞いたら、ハイバイの方でした。すみません。会ってすぐ気がつくべきでした...とか、桃唄309の方もいたり、とか、小生、かなり勝手に興奮していた、と思う。他の参加者の方々には申し訳なかったかも。

現代口語演劇を楽しむ/楽しんでもらうための1つの鍵は、「どうやって舞台の上で起こっていることに対して細部にわたるまで興味を持ってもらうか」ということにあると、常々思っているのだけれど、そうやって「観客の気を引く」ことに対する後ろめたさもあったり、逆に「難しいことは悪いことではない」と開き直っちゃったりすることもあって、なかなか、愛される芝居に仕上がらなかったりする。

あなざーわーくすの参加型演劇は、とにかく観客に楽しんでもらう、という軸がぶれないので、少なくとも、赤ん坊から中学生からお年寄まで、細部はともかくとして「舞台の上で起こっている事に対して前のめりになって興味を持ってもらう」ことにはかなり成功している。パフォーマーが投げかけたことに対して反応してもらうこと。現代口語演劇も、パフォームされている「場」が投げかけたことに対して、思いっきり想像力のスイッチを入れて観てほしい、と思っているはずなんだよな。

そこら辺の秘密、今回こそ盗みたいと思っていたのだけれど、ワークショップ開始10分で冷静さをなくした。

ふと思い返すと、やっぱり自分はダメであると、もっと周りが見えていないと、そして空気をキャッチできなくってどうしようもない、だめだだめだだめだーーーーー、と、前回に引き続き何ともいえぬ自己嫌悪に陥ってしまった。次回こそは。と思う。芝居脳味噌の柔軟体操、芝居やる人にも観る人にも、芝居に触れたことのない人にも、みーんなにお奨めです。

マチルドハイタワー

01/06/2008 マチネ

1時間、退屈した。
動きを少なく、台詞も絞ったところで、空いたところに観客の想像力は果たして働いていただろうか?僕はどうしてもそこが埋められなかったし、想像力のスイッチは入らなかった。
どこかのギャラリーで、観客が自分達のおしゃべりをしたり出入りしたりするのを許される仕掛けであれば、このスカスカさに耐えられるだろうけれど、でも、一応、音の出る機器の電源を切って、その場にじっとして、「待っている」のだから、それには応えてほしかった。

なーんてことを考えていたら、申し訳ないが、何度か、落ちた。特に、出の直後、はけの直前。人が入れ替わるところ。われながらショック。

何で眠たくなるのか、何でだろう、それを必死で考えだしたのだが、あ、そうだ、出はけと「雰囲気を変えたいとき」にかかる、この、「雰囲気を規定 するための」音楽がありきたりだからだ、と気がついた。そうだ、だから、僕はもうちょっと、この舞台に対して腹を立てても良いのではないだろうか、と、俄 然目がさえてきたところで、終演。

2008年6月1日日曜日

龍昇企画 夫婦善哉

31/05/2008 ソワレ

うーむ。期待が大きすぎたかも。
平田戯曲、演出次第で良くも悪くもなりうるという、残念な方の結果になってしまった。

なんだか、龍さんが舞台上で窮屈に感じている気がした。本当はもっと力を抜きたいのに、と。1月の劇研の「隣にいても一人」の時と較べるとなおさらだ。

「隣」といえば、それもやっぱり離婚と子供を巡る話だったが、「隣」の方が戯曲としてもより力の抜けた、こなれた感じになっていたと思う。逆に言うと、夫婦善哉の方がより「余地の少ない」厳しい戯曲になっていて、その分、演技の違和感は際立つ。

一番気になったのは、実は、「女優がちょこを口へ運ぶ時の顔のしかめ方が、テレビドラマみたいだったこと」である。一度気になりだすと、その後は、「舞台上のどこに目をやって観ればよいのか」をひたすら探し続ける1時間半。ちと辛かった。

料理の匂い、よし。質感も良し。回り舞台、よし。でも客に殊更に見せる必要はなし。

芝居中にパンフレットを読む客、ロボコン零点。こんな静かな芝居でチラシの束をガサガサさせるのは他の観客+役者に対して無礼だ。あと、貧乏ゆすりも。
もしかすると、そういうので僕も必要以上にささくれ立っていたのかもしれない。

上演権切れるということだが、是非是非次回も、龍さんの演技で、もっとタイトな演出で観てみたい。

文学座 風のつめたき櫻かな

31/05/2008 マチネ

平田戯曲は割と余地を残さないように書いてあって、調子っぱずれの演出が入ると本当に救いようの無い芝居に仕上がってしまう。平田戯曲に限らず 「現代口語演劇」系の戯曲に思いっきり新劇な演出がついてぶち壊し、という例は、小生が幸いにも目にしていない例も含め、枚挙に暇が無いものと予想され る。今回も、今だから言えるが、それをちょっと心配していた。

僕は戌井演出の芝居を観るのは初めてだが、今年の初め、青年団若手の「革命日記」を観に、春風舎にいらしてたのを目撃した時はちょっと衝撃だっ た。90を超えたおじいさんが、春風舎の螺旋階段を下りて、青年団の「若手公演」を観に行くのだから。その筋に長けた老人は何と恐るべき貪欲さを備えてい ることよ、と、その時は思っていて、だから、今回の芝居、その点は、逆にとっても楽しみだったのである。

して、その結果はといえば、作者と演出家がお互いに敬意をもって芝居作りに臨んだことが全体から窺われる、幸せな、末永く愛されるべき舞台が出来上がっていた。

平田戯曲は「新劇のベテランによって演じられること」を前提に、そのプラスマイナスを計算に入れて書かれているという印象だった(例えば、台詞の 長さ、おそらくト書きの指定、等々)。一方戌井演出の方には、平田が用意した「長台詞聞かせどころポイント」「泣かせポイント」を、どうしたら従来の新劇 の観客層にきちんと伝えつつ、そこで流れを止めないようにするか、に腐心した形跡が見えた。と思う。役者もその要求にうま~く応えていた。

戯曲は、久保田万太郎を下敷きにしながら(未読だが、そう言っているので)、花郎+さよならだけが人生か+光の都(チャンピオン)、の組み合わせ。
文具屋の市山は、実は市沢文具店である。喫茶ラインは、実はイーグルである。ラインというのは散髪屋の名前である。金物屋とパン屋は、実は同じお 店でかどやと呼ばれている。電気屋は東○電気である。宵町商店街のおじさんたちは、きっと、高校野球トトカルチョで一斉にしょっ引かれたり(誰か身内にち くるヤツがいたから)、酔っ払って「宵町商店街は、負け犬だぁ」と叫んでみたり、そういう人たちである。そんなことを考えて観た。平田は下町っ子ではない けれど、東京地元っ子であることは間違いない。

1つ気になったのは、太一が「わかさぎの甘露煮と土浦の蓮根」という台詞を言った時に、客席から、「ツチウラのレンコン!?」という、ものすごい 反応が起きたこと。いやいや、そういう、僕なら100%スルーしてしまうような台詞に反応が出るというのには、スッごく驚いた。きっと、その台詞にものす ごいリアリティ(いや、もしかすると違和感)を感じた観客がいたわけである。
後で調べたら、土浦は、日本一の蓮根の産地だそうだ。なるへそ。

やっぱり大方の泣かせポイントでは泣けなかったけど、最初に桜の花びらがカウンターに乗っかっているシーンでは、ちょっと、来た。単純な仕掛けだけど、そういうのが良い。坂口さん、トレンチコートで出てくるとき、実はその中に、「わたしは、櫻の精よ、うふ」っていうような、ジュディオング張りの桜色フリフリドレスを着込んでいたのではないかと思わせる。そんな遊び方(遊んでいるな、という思わせ方)も、僕には丁度よい塩梅だった。

気持ちよい舞台だった。