26/09/2015 14:30 @Pit, Barbican
自分自身がトゥレット症候群にかかっているJess Thomが主催する、Tourettesheroの公演。
非常に力強く、したたかで、かつ、暖かく聴衆全員を包み込む、素晴らしい舞台だった。
開演前、舞台上には女優一人が車いすに座り、ハムレットを読んでいる。下手に手話通訳。
下手パネルの裏に、「ひざまづいている」女性がいて、絶えず舞台上の女優にヤジというか、メッセージというか、を飛ばしている。
ちなみに、バービカンの最も下の下位に位置するPIT、その天井の10メートルぐらい上では、今まさにベネディクト・カンバーバッチのハムレットが上演中である。
開演すると、女優は立ち上がって後ろに下がり、下手にいた女性が膝をついたまま中央に出てきて、車いすに座る。それがJess Thom本人。
60分間の公演中に語られることは、彼女の病気について、子供の頃からの彼女の病気の進行について、
彼女が芝居を観に行ったときの出来事について、彼女が芝居を始めることになったきっかけについて、
冗談早押しクイズ大会をはさんで、
共演の女優がどうしてJess Thomと一緒に公演をしようと考えるようになったのか、そのきっかけについて。
語られる話自体は実話で、だから、この公演も、芝居というよりも、パフォーマンスと呼んだ方が良いのかもしれない。
でもね、これは、演劇でした。力強く、演劇でした。
障害者の支援をアピールする講演会ではなくて、障害者も健常者もなく、劇場という場を支えるしたたかな計算が、確かにそこにあった。
Jess Thomはトゥレット症候群の患者である。
チックの重いものだと考えると良いと思う。
Jessは1日に16,000回、Biscuitという言葉を発する。時としてCatっていう言葉だったりする。もっと下卑た言葉だったりする。
Jessは5秒に1度くらい、自分の胸の真ん中、鎖骨の繋がっている辺りを、自分の右の拳で殴る。放っておくと拳の骨が砕けるので、クッションになる手袋を嵌めている。
Jessは歩けない。歩こうとすると、脚が不随意に動いて、2、3歩で転ぶ。だから車椅子が要る。
Jessが皿に盛ったイチゴを右手で食べようとすると、彼女の右手はイチゴを掴んで彼女自身の顔に思い切りぶつけ、すりつぶす。彼女からはイチゴの匂いがしてくる。
トゥレット症候群は、頭の病気ではなくて、神経の病気である。だから、Jessの知的能力や意思の力には病気は及んでいない。
ただ、口から出てくる言葉や、手足の動きが、自分でコントロールできない時がある、っていうことである。それも、24時間。
Jessは公演前に「公演中に発作が出たら一旦引っ込まなきゃならないので、その時はしばらく待ってて下さい。相棒のChopinが繋ぎます」と断りを入れる。
この日の14時半の公演では発作は出なかった。
Jessがどんなに可哀想な人かを説明するために上のことを書いたのではない。
上記を前提した上で、Tourettesheroが、60分の公演をどのようにエンターテイニングなものにするかをきちんと考えて、そして面白くなっていた、という素晴らしいことについて書きたかったのです。
Jessの語ることにはテーマがあって、それは、Inclusion「包摂、かな?」ということだと、僕は思う。
他人を排除せずに、懐広く、色んなものを共有する態度。
それは、彼女の経験を元にして語れるっていう面もあれば、より重要なことに、彼女の周囲の人がどのようにしてJessのムーヴメントに取り込まれていくのか、っていうプロセスの話でもある。聴衆の態度でもある。
で、それが、パフォーマンスの間のステージの(客席への)開き方に強く表れていた。
こういう語りのパフォーマンスで、日本人が一人で座っていると、パフォーマーは目を合わそうとしない傾向がある。
どこまで自分の言葉が分かってもらえてるかに自信がないとか、表情が読めないとか、色んな理由があると思う。
が、この舞台の2人組には、そういう垣根一切無し。誰に対しても、一切無し。
日本でそういう強さを持った舞台って、僕がこれまで見た限りでは、うーん、快快、あなざーわーくす、東京デスロック、だろうか。
例えば、あなざーわーくすの凄みは、その「細やかさ」にあるとすると、
Tourettosheroの凄みは、その、あけすけなオープンさと、それでも舞台上の空間を壊させない力強さにある。
ここまで開いても、舞台って壊れないんだ!という驚き。
その要因には、もちろん、JessとChopinのキャラクター、強さもあるんだろうけれど、加えて、プロダクション自体が持つユーモア、問いかけ、「お涙ちょうだい」を自らに許さない力強さと甘えのなさ、ポジティブさ。
そういうの、すべてひっくるめて、本当に素晴らしい60分だった。
2015年9月28日月曜日
2015年9月24日木曜日
The Christians
19/09/2015 19:30 @ The Gate Theatre
まずもって、信者の方、あるいは、何らかの神様を信じていらっしゃる方には若干失礼な物言いになってしまうことをお断りします。
が、「地獄は本当にあるのか?」というテーマで、舞台上の人物達が大まじめに議論を繰り広げる80分間。
どうにも滑稽で、目が離せなかった。
こういう芝居が、真っ当な「社会派のストレートプレイ」として成り立ってしまうことに、驚きを隠せない。
(ちなみに、この芝居はアメリカを舞台にした、アメリカ人によって書かれた芝居です)
投げ出さずに最後まで観ていられたのは、それは、構成の妙と、役者の力とに依るところが大きいだろう。
でも、やっぱり、
「地獄は本当にあるのか?」「信者じゃない人は、どんなに良い人でも地獄落ちなのか?」っていう議論が、
「人と人との関係をどう作っていくのか」よりも先に立っちゃう世界って、
たとえそれが舞台の上であったとしても、どうよ?って思う。
夫婦の間で
「2人、信じている教義が違うから、あなたと私のどちらかは地獄落ちね。2人は永遠に一緒ではいられないのね」
って、僕自身や周りのできごとと繋げて考えるには、余りにも遠すぎる。
これ、信者の人が観たら一体どう思うのかって興味はあるけれど、怖くて聞けないな。
まずもって、信者の方、あるいは、何らかの神様を信じていらっしゃる方には若干失礼な物言いになってしまうことをお断りします。
が、「地獄は本当にあるのか?」というテーマで、舞台上の人物達が大まじめに議論を繰り広げる80分間。
どうにも滑稽で、目が離せなかった。
こういう芝居が、真っ当な「社会派のストレートプレイ」として成り立ってしまうことに、驚きを隠せない。
(ちなみに、この芝居はアメリカを舞台にした、アメリカ人によって書かれた芝居です)
投げ出さずに最後まで観ていられたのは、それは、構成の妙と、役者の力とに依るところが大きいだろう。
でも、やっぱり、
「地獄は本当にあるのか?」「信者じゃない人は、どんなに良い人でも地獄落ちなのか?」っていう議論が、
「人と人との関係をどう作っていくのか」よりも先に立っちゃう世界って、
たとえそれが舞台の上であったとしても、どうよ?って思う。
夫婦の間で
「2人、信じている教義が違うから、あなたと私のどちらかは地獄落ちね。2人は永遠に一緒ではいられないのね」
って、僕自身や周りのできごとと繋げて考えるには、余りにも遠すぎる。
これ、信者の人が観たら一体どう思うのかって興味はあるけれど、怖くて聞けないな。
People, Places and Things
19/09/2015 14:30 @National Theatre, Dorfman Theatre
日本に岩井秀人の大傑作「ヒッキー・カンクーン・トルネード」があり、「ヒッキー・ソトニデテミターノ」があるならば、
UKにはこの芝居あり。いわば、「ジャンキー・ソトニデテミタイーノ」である。
題名の"People, Places and Things"というのは、中毒患者がリハブを出た後、近づいちゃいけないと言われている3つのもの。
すなわち、せっかく中毒を治療して出所しても、中毒のきっかけとなるトラウマになった「人物」「場所」「物事」に近づいてしまうと、
そこをきっかけにして元の木阿弥になってしまう、ということなんだそうだ。
主人公の女性は、出来の良過ぎる母と押しの弱い父と出来の良い弟に挟まれて育ち、両親にかわいがられた良い子の弟は死んでしまって出来の悪い自分は生き残り、自意識過剰で、役者志望だが薬と酒でヘロヘロになってリハブに入所。
その彼女の入所から出所までを描いた2時間半。
絵に描いたような「自意識過剰人間」を舞台に載せて、巷の評判も大変高かったものだから、「熱演勘違い女優だったらどうしよう」と心配していたのだが、それは杞憂だった。
確かに主人公は自意識過剰な女なのだけれど、その自意識に、観客に対して「分かってちょうだい!」という押しつけがましさがない。むしろ、その、イタタ、っていうか、おいおい、っていう振る舞いを観ているうちに、不思議とその自意識に近づきたい感じになってくるのだ。
で、リハブのグループセラピーで、
「じゃあ、出所した後、復帰の挨拶を誰かにする、そのリハーサルをしてみましょう。じゃあ、あなた、上司の役ね。」
みたいなことを始めたところで、あれ、これ、ひょっとして演劇療法?ってやつ?
さらに「あぁ、うまくできない!これじゃ復帰できない!もっと上手くやらなきゃ!」っていう自意識で自爆していく入所達の姿が、
そして、社会復帰したと思ったら職員としてリハブに戻ってきたりするところが、やがて、
「あ!この人達、ヒッキーだ!この主人公は、登美男だ!」
という確信に変わった。
日本でヒッキーが傷つきやすい自意識を抱えて日夜悩んでいるとすれば、UKではジャンキー達が、同じく傷つきやすく、そして、西洋人だけに強力な自我を伴ってしまう厄介さもはらんだ自意識を抱えて、やっぱり日夜悩んでいるわけである。
この芝居に出てくるジャンキー達も、それぞれの事情を抱えながら、文字通り生と死の狭間でフラフラしながら、どうすれば自意識と外界との折り合いがつくのか、そもそも折り合いをつけたいのか、ってところでもがき続ける。それが、劇場内の対面客席に挟まれた「タイル張り風の」舞台、ちょうど、田舎の旅館か病院の、薄い青色をした塩素臭いタイルのような壁と天井に囲まれた舞台で描かれている。
この芝居は、従って、ただのジャンキー社会復帰物語ではなくて、自意識と外界のせめぎ合いの話であって、だから、主人公の職業である「女優」という仕事も、やっぱり自意識と「ウソンコの」外界と「リアルな」外界とウソと本音とのせめぎ合いとして、示されていて、だから、この主演女優の自意識が全体のフレームの中できっちり役割を果たして、上手く収まっている。
そして、ジャンキーがいざ出所したときの、「芝居でない、リアルな」外界のキツさといったら!けだし、「人物」と「場所」と「物事」である。
この芝居には、押しつけがましい人は出てくるかもしれないけれど、観客に対する妙な感動や希望や絶望の押しつけはない。泣きはするけど泣かせはしない。でも、劇場を出てからも、色んなことを考える。
主人公のこれからや、ヒッキーのあれからや、自分と世間の折り合いや、「もしかしたらそうなっていたかもしれない」仮定の世界の自分と世間の折り合いについて、色々考える。
そういう風にさせてくれる芝居は、そんなにないと思う。素晴らしい舞台だった。
日本に岩井秀人の大傑作「ヒッキー・カンクーン・トルネード」があり、「ヒッキー・ソトニデテミターノ」があるならば、
UKにはこの芝居あり。いわば、「ジャンキー・ソトニデテミタイーノ」である。
題名の"People, Places and Things"というのは、中毒患者がリハブを出た後、近づいちゃいけないと言われている3つのもの。
すなわち、せっかく中毒を治療して出所しても、中毒のきっかけとなるトラウマになった「人物」「場所」「物事」に近づいてしまうと、
そこをきっかけにして元の木阿弥になってしまう、ということなんだそうだ。
主人公の女性は、出来の良過ぎる母と押しの弱い父と出来の良い弟に挟まれて育ち、両親にかわいがられた良い子の弟は死んでしまって出来の悪い自分は生き残り、自意識過剰で、役者志望だが薬と酒でヘロヘロになってリハブに入所。
その彼女の入所から出所までを描いた2時間半。
絵に描いたような「自意識過剰人間」を舞台に載せて、巷の評判も大変高かったものだから、「熱演勘違い女優だったらどうしよう」と心配していたのだが、それは杞憂だった。
確かに主人公は自意識過剰な女なのだけれど、その自意識に、観客に対して「分かってちょうだい!」という押しつけがましさがない。むしろ、その、イタタ、っていうか、おいおい、っていう振る舞いを観ているうちに、不思議とその自意識に近づきたい感じになってくるのだ。
で、リハブのグループセラピーで、
「じゃあ、出所した後、復帰の挨拶を誰かにする、そのリハーサルをしてみましょう。じゃあ、あなた、上司の役ね。」
みたいなことを始めたところで、あれ、これ、ひょっとして演劇療法?ってやつ?
さらに「あぁ、うまくできない!これじゃ復帰できない!もっと上手くやらなきゃ!」っていう自意識で自爆していく入所達の姿が、
そして、社会復帰したと思ったら職員としてリハブに戻ってきたりするところが、やがて、
「あ!この人達、ヒッキーだ!この主人公は、登美男だ!」
という確信に変わった。
日本でヒッキーが傷つきやすい自意識を抱えて日夜悩んでいるとすれば、UKではジャンキー達が、同じく傷つきやすく、そして、西洋人だけに強力な自我を伴ってしまう厄介さもはらんだ自意識を抱えて、やっぱり日夜悩んでいるわけである。
この芝居に出てくるジャンキー達も、それぞれの事情を抱えながら、文字通り生と死の狭間でフラフラしながら、どうすれば自意識と外界との折り合いがつくのか、そもそも折り合いをつけたいのか、ってところでもがき続ける。それが、劇場内の対面客席に挟まれた「タイル張り風の」舞台、ちょうど、田舎の旅館か病院の、薄い青色をした塩素臭いタイルのような壁と天井に囲まれた舞台で描かれている。
この芝居は、従って、ただのジャンキー社会復帰物語ではなくて、自意識と外界のせめぎ合いの話であって、だから、主人公の職業である「女優」という仕事も、やっぱり自意識と「ウソンコの」外界と「リアルな」外界とウソと本音とのせめぎ合いとして、示されていて、だから、この主演女優の自意識が全体のフレームの中できっちり役割を果たして、上手く収まっている。
そして、ジャンキーがいざ出所したときの、「芝居でない、リアルな」外界のキツさといったら!けだし、「人物」と「場所」と「物事」である。
この芝居には、押しつけがましい人は出てくるかもしれないけれど、観客に対する妙な感動や希望や絶望の押しつけはない。泣きはするけど泣かせはしない。でも、劇場を出てからも、色んなことを考える。
主人公のこれからや、ヒッキーのあれからや、自分と世間の折り合いや、「もしかしたらそうなっていたかもしれない」仮定の世界の自分と世間の折り合いについて、色々考える。
そういう風にさせてくれる芝居は、そんなにないと思う。素晴らしい舞台だった。
2015年9月23日水曜日
英語の芝居観てて、セリフ聞き取れるんですか?
こうして、UKに来て、芝居のブログ書いてるわけですが、今さらのように白状するが、全部の台詞が聞き取れているわけではない。
もちろん、全部聞き取れる芝居もたまーにある。普通に芝居観てると、聞き取れない箇所は沢山ある。
訛りがきつかったり、早口だったりすると、なおさらである。
聞き取れてても、単語の意味が分からない時も結構ある。
この間エディンバラで観たConfirmationでは、"Heuristic"っていう言葉が何回も出てきて、しかも解らなかった。うー。
芝居への集中度合いによって、聞き取れるモノも聞こえなくなってしまうことも、ままある。
が、これは、負け惜しみと取られても仕方がないが、聞き取れても聞き取れなくても、面白いモノと面白くないモノの区別はおおかたつく。
実際、ネイティブの人だって、全員が全部聞き取れているわけではない。はずだ。
だから、良いのだ。聞き取れなくったって、そういうものとして、楽しんでいれば。
ご参考までに、いくつか例を挙げると、
(1) 1996年、Hampstead Theatreで。とある芝居の幕間で、隣の老婦人に声をかけられて、
「あなた、このお芝居の台詞、意味は全部おわかり?」
「(ギクッ!)い、いや、正直、半分くらいは分かりません」
「そーよねー!私も半分くらい分かんないのよ。難しい単語が出てくるもんだから。」
「・・・」
「でも、良い芝居よね」
その芝居はその後ウェストエンドに進出した。
(2) 1996年、ビジネススクールの授業中(北イングランド出身の先生)、隣のシカゴ出身の同級生から、
「おい、お前、あの先生が何言ってるか、分かる?」
「・・・(ネイティブでも聞き取れないモノを、オレが分かってるわけないだろ!)」
(3) 今の職場でも、実は、時々、上司のNZ人の言ってることが分かんないときがあるのだが、
最近判明したのは、「イギリス人の部下も、時々、分かんないことがあるらしい!」
でも、日本人が聞き取れなくて分からないならともかく、イギリス人として「ちょっと聞き取れなかったんだけど」
とはとても言えず、後から「あれ、何て言ってた?」ってみんなで確認してるらしい・・・
ことほどさように、英語というのは、聞き手に余地を許してくれる言語なのである。
そこは、うまーく想像力を駆使して、切り抜ける。間違ってたら、ごめんね、って言って訂正する。
完璧に分からないと返事できないとか、感想書けないとか、そういうのは、無用の心配と割り切って、ブログ書いてます。
もちろん、全部聞き取れる芝居もたまーにある。普通に芝居観てると、聞き取れない箇所は沢山ある。
訛りがきつかったり、早口だったりすると、なおさらである。
聞き取れてても、単語の意味が分からない時も結構ある。
この間エディンバラで観たConfirmationでは、"Heuristic"っていう言葉が何回も出てきて、しかも解らなかった。うー。
芝居への集中度合いによって、聞き取れるモノも聞こえなくなってしまうことも、ままある。
が、これは、負け惜しみと取られても仕方がないが、聞き取れても聞き取れなくても、面白いモノと面白くないモノの区別はおおかたつく。
実際、ネイティブの人だって、全員が全部聞き取れているわけではない。はずだ。
だから、良いのだ。聞き取れなくったって、そういうものとして、楽しんでいれば。
ご参考までに、いくつか例を挙げると、
(1) 1996年、Hampstead Theatreで。とある芝居の幕間で、隣の老婦人に声をかけられて、
「あなた、このお芝居の台詞、意味は全部おわかり?」
「(ギクッ!)い、いや、正直、半分くらいは分かりません」
「そーよねー!私も半分くらい分かんないのよ。難しい単語が出てくるもんだから。」
「・・・」
「でも、良い芝居よね」
その芝居はその後ウェストエンドに進出した。
(2) 1996年、ビジネススクールの授業中(北イングランド出身の先生)、隣のシカゴ出身の同級生から、
「おい、お前、あの先生が何言ってるか、分かる?」
「・・・(ネイティブでも聞き取れないモノを、オレが分かってるわけないだろ!)」
(3) 今の職場でも、実は、時々、上司のNZ人の言ってることが分かんないときがあるのだが、
最近判明したのは、「イギリス人の部下も、時々、分かんないことがあるらしい!」
でも、日本人が聞き取れなくて分からないならともかく、イギリス人として「ちょっと聞き取れなかったんだけど」
とはとても言えず、後から「あれ、何て言ってた?」ってみんなで確認してるらしい・・・
ことほどさように、英語というのは、聞き手に余地を許してくれる言語なのである。
そこは、うまーく想像力を駆使して、切り抜ける。間違ってたら、ごめんね、って言って訂正する。
完璧に分からないと返事できないとか、感想書けないとか、そういうのは、無用の心配と割り切って、ブログ書いてます。
2015年9月22日火曜日
The Win Bin
13/09/2015 15:00 @Old Red Lion Theatre
観客10人に満たない小さな小屋での観劇だったのだけれど、途中、寝た。すみません。
でも、寝ていて損したとは思わなかった。パブの2階だったので1杯引っかけたのも良くなかったのかもしれないが、それでも十分集中してみられる芝居もあるし。
後で知ったのだが、実は登場人物6人、男女2人組×3ペアを、2人で演じ分けていたのだそうだ。
僕はずっと、2人組が違う名前でふざけて呼び合ったり、全く違うことを試してみたり、突如過去の経緯に照らして関係性が変わったりしているのかと思っていた。
「演じ分けていた」のだそうだ。
自分の英語力のせいなのか。一杯飲んだせいなのか。
いや、役者が演じ分けてなかったからだろう。敢えて言う。
「演じ分けられてなかった」んじゃないんだろう。「演じ分けてなかった」んだろう。そうでないとあそこまで同じにならないよ。
何がキューになって登場人物が切り替わったのか、正直、まったく、未だに、想像もつかない。
もしかしたら相当過激な舞台だったのかもしれない。
ただ単にダメなだけだった気が、負け惜しみでないけれど、している。
してみると。だ。エディンバラで観たときには「ヌルい!」と思ったForced EntertainmentのTomorrow's Partiesで味わった、2人でずっと話していてもきちんとついていける、ペースの変化や淡々とした中にある内側の微妙なモノがわざとらしくなく出てくる、あれは、かなりレベルの高い演技だったのかも!と思ってしまう。
何事も比較感、相場観、ってものはあるもんである。
観客10人に満たない小さな小屋での観劇だったのだけれど、途中、寝た。すみません。
でも、寝ていて損したとは思わなかった。パブの2階だったので1杯引っかけたのも良くなかったのかもしれないが、それでも十分集中してみられる芝居もあるし。
後で知ったのだが、実は登場人物6人、男女2人組×3ペアを、2人で演じ分けていたのだそうだ。
僕はずっと、2人組が違う名前でふざけて呼び合ったり、全く違うことを試してみたり、突如過去の経緯に照らして関係性が変わったりしているのかと思っていた。
「演じ分けていた」のだそうだ。
自分の英語力のせいなのか。一杯飲んだせいなのか。
いや、役者が演じ分けてなかったからだろう。敢えて言う。
「演じ分けられてなかった」んじゃないんだろう。「演じ分けてなかった」んだろう。そうでないとあそこまで同じにならないよ。
何がキューになって登場人物が切り替わったのか、正直、まったく、未だに、想像もつかない。
もしかしたら相当過激な舞台だったのかもしれない。
ただ単にダメなだけだった気が、負け惜しみでないけれど、している。
してみると。だ。エディンバラで観たときには「ヌルい!」と思ったForced EntertainmentのTomorrow's Partiesで味わった、2人でずっと話していてもきちんとついていける、ペースの変化や淡々とした中にある内側の微妙なモノがわざとらしくなく出てくる、あれは、かなりレベルの高い演技だったのかも!と思ってしまう。
何事も比較感、相場観、ってものはあるもんである。
2015年9月21日月曜日
Absent
13/09/2015 13:15 @Shoreditch Town Hall
厳密には「演劇」というより「インスタレーション」かもしれない。Shoreditch Town Hallの地上階と地下のフロアを贅沢に使い、改装中のホテルに見立てた中を観客が巡る趣向の、(そう、日本で言えば「お化け屋敷」みたいな)パフォーマンス。
非常に面白かった。
Shiningで始まり、Badly Drawn Boyの"Spitting in the Wind"のPVを思わせる展開とノスタルジア、そして飴屋法水さんの「わたしのすがた」を思い出させる「痕跡」の取り扱い。
舞台は改装中のホテル、物語は、1950年代から2015年までこのホテルに滞在していたが、ホテル代が払えなくなって追い出された「元・社交会の大物」Margaret de Beaumont。まぁ、ここまで言ってしまうと、大体は、「何が言いたいのかなー」というのが分かってしまいそうなものだし、実際、そこから大きくはみ出るプロットはないのだけれど。
が、実際に一人で入ってみると、これが、怖い。
改装中の実在の古い建物の地下と、液晶ディスプレイと、鏡との組み合わせ。
まず、「過去の記憶」の映像を見つけてそこをのぞき込むと、そこはもうShiningの世界で、「もしここでおいでおいでされたら無茶苦茶怖い、逃げ出してしまう」ぐらいの迫力はある。
一人でいるのは怖いから誰かといたい。が、パートナー以外の人と行ってはいけない。何故なら、そこにいる人と手を繋ぎたくなってしまうからである。そうしないと、合わせ鏡から人が飛び出してきたらどうしようとか、クローゼットから何か出てきたらどうしようとか、扉の向こうには・・・、とか考えてしまうのである。
が、おずおずと引き返して「やっぱり見ません」というのは格好悪いので、先に進む。
先に進むにつれて、物語の構造が細かく見えてくる。それは、「過去の記憶」を再生することによって積み上げられていく。物語自体の語りは、極力抑えてあるのだけれど、まぁ、英国人を相手にせにゃならんので、ある程度説明的にはならざるを得ないかなーという感じ。
ただし、大きなどんでん返しはないにせよ、「観客に任せてある」部分が結構大きく取ってあって、それは嬉しい。
この話のモデルとなった実在の人物、The Duchess of Argyllについて知る人であれば、そのモデルについての記憶を思い起こしつつ、自分なりの物語を組み立てれば良いだろう。僕のように、モデルについて全く知らなければ、「ホテル暮らしのSocialite」という概念もいまいちピンとこない人間は、Badly Drawn BoyのPVに出てくるJoan Collinsを思い起こしながら、(実は、そのPVを最初にオランダのホテルで見たときの家族旅行のことを思い出しながら)このインスタレーションを巡ることになる。
そして、記憶の呼び覚まされ方は、人によって様々だろうし、人によっては全くピンとこないこともあるだろう。
それで良い。それくらい放ったらかしにされている方が、僕には心地よい。
トータル40分ぐらいで回り終えてしまったのだけれど、実のところ、前半、怖くて早足で進んでしまったので、もう少し長居できたのではないかと、ちょっと後悔している。
もう一回行きたい。が、一人では行きたくない。が、パートナー以外の人と行ってはいけない。むむむ。
厳密には「演劇」というより「インスタレーション」かもしれない。Shoreditch Town Hallの地上階と地下のフロアを贅沢に使い、改装中のホテルに見立てた中を観客が巡る趣向の、(そう、日本で言えば「お化け屋敷」みたいな)パフォーマンス。
非常に面白かった。
Shiningで始まり、Badly Drawn Boyの"Spitting in the Wind"のPVを思わせる展開とノスタルジア、そして飴屋法水さんの「わたしのすがた」を思い出させる「痕跡」の取り扱い。
舞台は改装中のホテル、物語は、1950年代から2015年までこのホテルに滞在していたが、ホテル代が払えなくなって追い出された「元・社交会の大物」Margaret de Beaumont。まぁ、ここまで言ってしまうと、大体は、「何が言いたいのかなー」というのが分かってしまいそうなものだし、実際、そこから大きくはみ出るプロットはないのだけれど。
が、実際に一人で入ってみると、これが、怖い。
改装中の実在の古い建物の地下と、液晶ディスプレイと、鏡との組み合わせ。
まず、「過去の記憶」の映像を見つけてそこをのぞき込むと、そこはもうShiningの世界で、「もしここでおいでおいでされたら無茶苦茶怖い、逃げ出してしまう」ぐらいの迫力はある。
一人でいるのは怖いから誰かといたい。が、パートナー以外の人と行ってはいけない。何故なら、そこにいる人と手を繋ぎたくなってしまうからである。そうしないと、合わせ鏡から人が飛び出してきたらどうしようとか、クローゼットから何か出てきたらどうしようとか、扉の向こうには・・・、とか考えてしまうのである。
が、おずおずと引き返して「やっぱり見ません」というのは格好悪いので、先に進む。
先に進むにつれて、物語の構造が細かく見えてくる。それは、「過去の記憶」を再生することによって積み上げられていく。物語自体の語りは、極力抑えてあるのだけれど、まぁ、英国人を相手にせにゃならんので、ある程度説明的にはならざるを得ないかなーという感じ。
ただし、大きなどんでん返しはないにせよ、「観客に任せてある」部分が結構大きく取ってあって、それは嬉しい。
この話のモデルとなった実在の人物、The Duchess of Argyllについて知る人であれば、そのモデルについての記憶を思い起こしつつ、自分なりの物語を組み立てれば良いだろう。僕のように、モデルについて全く知らなければ、「ホテル暮らしのSocialite」という概念もいまいちピンとこない人間は、Badly Drawn BoyのPVに出てくるJoan Collinsを思い起こしながら、(実は、そのPVを最初にオランダのホテルで見たときの家族旅行のことを思い出しながら)このインスタレーションを巡ることになる。
そして、記憶の呼び覚まされ方は、人によって様々だろうし、人によっては全くピンとこないこともあるだろう。
それで良い。それくらい放ったらかしにされている方が、僕には心地よい。
トータル40分ぐらいで回り終えてしまったのだけれど、実のところ、前半、怖くて早足で進んでしまったので、もう少し長居できたのではないかと、ちょっと後悔している。
もう一回行きたい。が、一人では行きたくない。が、パートナー以外の人と行ってはいけない。むむむ。
2015年9月20日日曜日
Lela and Co.
12/09/2015 19:45 @Royal Court Theatre, Jerwood Theatre Upstairs
とある田舎育ちの少女が、街で出会った男と駆け落ち同様の結婚をしてから、すっごく悲惨な目に遭った末に故郷の村に戻るまでを語る、これもやっぱり語り芝居。
相方の男優(1人)が色々な役で絡んでくるので、独り語りではない。
話のフォーマットも筋書きも、取り立てて奇をてらっているわけではないのに、最後まで目が離せない、密な舞台だった。
昼に観た芝居と比べても、予算の面でも、細部の凝り方を観ても、決して「上を行っている」とは言えないのに、観客への迫り方は圧倒的に力強い。
相方の男優が色んな役で出てくるのも良くあるパターンだし、簡単にチープな芝居と切って捨てられてもおかしくない「着飾り方」の芝居なのに、観ていて飽きなかった。
まずは舞台。変則的な形をしたRoyal Court Theatre最上階のスタジオに入ると、その壁の二辺に沿って、紅の幕が下がっている。舞台奥に"LENA"という名前が電飾が飾られ、舞台中央にはふたが開いて収納になるソファ。舞台下手に天井からつり下がったハンギングチェア。いかにもチープな地方の公民館にやって来たどさ回りの芝居という風情。
観客を笑顔で迎える、ぱっと見ルイス・スアレス似の男優は(文字通り)金ぴかのスーツに銀の靴。ハンギングチェアに「夢見る少女風」に表情を浮かべ、それに相応しい衣装を着た女優。
このチープなフレームが、実は、すごく良かったなぁ、と、芝居が終わってから思えてくるのだ。
この女優Katie West、特にしなを作るわけでもないし、かわいこぶっているわけでもないのに、目が離せない。
冒頭の少女語りの時から、何故か時として老いた感じがわき出してきそうな気がしているのだ。年齢は20台後半から30台前半か、
北の訛りの英語で、笑顔を絶やさず、時としてすごく早口で喋るのだが、不思議に話についていけなくなったりはしない
(彼女の早口については、終演後、客席にいた老齢の女性が、「あのこはちょっと早口すぎたわよね」って言ってたので間違いない)。
おそらく、「音」として、このアクセントとこの音程、解像度が、僕のツボに嵌まっているんじゃないかという気はする。聞いていて気持ちいい。
口のわきに若干大きめのニキビあるいは吹き出物が2つ。これも、場末感を醸し出すためにわざとやってるんじゃないかと思えてきたりする。
(この場末感と年齢不詳感は、一種、緑魔子さんにも通じるものがある。)
この「少女」が、まさに色んなひどい目に遭った末に実家に帰ってくるまでを、ほとんど泣きを入れずに(いや、泣きはどうしても入ってしまうんだよね。エディンバラでもそうだったけれども、女の一生ものの語りには、もう、付き物だと思ってあきらめるしかない・・・)、語るのだが、それが、どんなに悲惨な展開になっても
「わたしって!本当に可哀想!」
に落ちていかない。ここでは物語については紹介しないけれど、とりあえず、本当に悲惨な話なんだ(そしてどうもこれは実話に基づいているらしいのだ)。
それでも、劇場中が「ああ!本当に可哀想な話ね!」
の同情の渦に落ちこんでいかないところに、この芝居の力強さと、意志の力を感じたのだ。
(また別の老齢の女性は、夫に「こんな物語だと知ってたら観に来なかったわよ」とのたまわっていたが。)
出てくる男達もことごとく、ひどい男達揃えて、その癖言い訳はごまんと取りそろえて最低の奴らなのだが、芝居の機能としてうるさくない。
そうした芝居の作りが、実は、舞台のチープな作りと100%マッチしている。
語り手の居場所をきちんと作ると同時に、それを聞かされる聴衆の視線の在り方を試す構造になっていて、そこで腰が決まっているから、骨太な芝居に作り上げることができていたんだな、というのは、劇場を出てから気がついたこと。
とある田舎育ちの少女が、街で出会った男と駆け落ち同様の結婚をしてから、すっごく悲惨な目に遭った末に故郷の村に戻るまでを語る、これもやっぱり語り芝居。
相方の男優(1人)が色々な役で絡んでくるので、独り語りではない。
話のフォーマットも筋書きも、取り立てて奇をてらっているわけではないのに、最後まで目が離せない、密な舞台だった。
昼に観た芝居と比べても、予算の面でも、細部の凝り方を観ても、決して「上を行っている」とは言えないのに、観客への迫り方は圧倒的に力強い。
相方の男優が色んな役で出てくるのも良くあるパターンだし、簡単にチープな芝居と切って捨てられてもおかしくない「着飾り方」の芝居なのに、観ていて飽きなかった。
まずは舞台。変則的な形をしたRoyal Court Theatre最上階のスタジオに入ると、その壁の二辺に沿って、紅の幕が下がっている。舞台奥に"LENA"という名前が電飾が飾られ、舞台中央にはふたが開いて収納になるソファ。舞台下手に天井からつり下がったハンギングチェア。いかにもチープな地方の公民館にやって来たどさ回りの芝居という風情。
観客を笑顔で迎える、ぱっと見ルイス・スアレス似の男優は(文字通り)金ぴかのスーツに銀の靴。ハンギングチェアに「夢見る少女風」に表情を浮かべ、それに相応しい衣装を着た女優。
このチープなフレームが、実は、すごく良かったなぁ、と、芝居が終わってから思えてくるのだ。
この女優Katie West、特にしなを作るわけでもないし、かわいこぶっているわけでもないのに、目が離せない。
冒頭の少女語りの時から、何故か時として老いた感じがわき出してきそうな気がしているのだ。年齢は20台後半から30台前半か、
北の訛りの英語で、笑顔を絶やさず、時としてすごく早口で喋るのだが、不思議に話についていけなくなったりはしない
(彼女の早口については、終演後、客席にいた老齢の女性が、「あのこはちょっと早口すぎたわよね」って言ってたので間違いない)。
おそらく、「音」として、このアクセントとこの音程、解像度が、僕のツボに嵌まっているんじゃないかという気はする。聞いていて気持ちいい。
口のわきに若干大きめのニキビあるいは吹き出物が2つ。これも、場末感を醸し出すためにわざとやってるんじゃないかと思えてきたりする。
(この場末感と年齢不詳感は、一種、緑魔子さんにも通じるものがある。)
この「少女」が、まさに色んなひどい目に遭った末に実家に帰ってくるまでを、ほとんど泣きを入れずに(いや、泣きはどうしても入ってしまうんだよね。エディンバラでもそうだったけれども、女の一生ものの語りには、もう、付き物だと思ってあきらめるしかない・・・)、語るのだが、それが、どんなに悲惨な展開になっても
「わたしって!本当に可哀想!」
に落ちていかない。ここでは物語については紹介しないけれど、とりあえず、本当に悲惨な話なんだ(そしてどうもこれは実話に基づいているらしいのだ)。
それでも、劇場中が「ああ!本当に可哀想な話ね!」
の同情の渦に落ちこんでいかないところに、この芝居の力強さと、意志の力を感じたのだ。
(また別の老齢の女性は、夫に「こんな物語だと知ってたら観に来なかったわよ」とのたまわっていたが。)
出てくる男達もことごとく、ひどい男達揃えて、その癖言い訳はごまんと取りそろえて最低の奴らなのだが、芝居の機能としてうるさくない。
そうした芝居の作りが、実は、舞台のチープな作りと100%マッチしている。
語り手の居場所をきちんと作ると同時に、それを聞かされる聴衆の視線の在り方を試す構造になっていて、そこで腰が決まっているから、骨太な芝居に作り上げることができていたんだな、というのは、劇場を出てから気がついたこと。
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