2010年4月30日金曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第2回

24/04/2010

第2回は、ダンス・演劇批評家、武藤・佐々木・水牛のお三方を迎えてのシンポジウム「私の考える劇評」。

非常に率直な意見が聞けて小生ご満悦。さらに三人の一致した見解として「批評は必ずしもなくてはならないものではない」というのも率直かつ実は「批評」が依って立つポイントとして非常に重要な考え方だと思われ、それも収穫。

お三方それぞれに「劇評は誰に向けて書いているのか」について自覚的で、よって、「劇評とレビューと感想とはどう違うのか」についての「大体の」線引きができている。そうなると「レビューや感想じゃなくて批評を書け」みたいな注文に対する前捌きが可能だろう。「前捌き」というのは、三つのカテゴリーの間にあるのは明確な線引きではなくて、「大体の」線引きとそのバランスだから。

そういう意味で、佐々木氏の「プロパーの批評家」、武藤氏の「精緻に見ること」「批評とアカデミズムの両立」、といった言い方は非常に面白い。また、言説が「創り手」や「読者」に対してもつ権力性みたいなものへの注意深さも感じられて、大変示唆に富むシンポジウムだったと思う。

一つだけ宙吊りになっているのは、おそらく、野村氏が言っていた「創り手の意図をどう汲むのか」という質問への回答。僕自身は「作品は一旦創り手を離れてしまったら観客・聴衆・読者の妄想・想像力の手にゆだねられてしまうから、創り手の意図なんて、一種、どうでもよいのです」と言いたくなってしまう。でも、ドラマターグとして創り手の周辺に立って観客席も見る渡す仕事をしている野村氏からすれば「いやいやそうはいっても」ということではあるだろう。佐々木氏や水牛氏のスタンスは何となく予想できる気がする(た易いというのではなく、一貫しているという意味で)。武藤氏はどうか?「意図のない、ポイと投げ出しちまう創り手の作品について書く気はない」という彼は、どう回答するだろうか?

これに限らず、チラシの裏に書き付けた断片的なメモを読み返すといろんなアイディアや回答が埋まってて、いやいや、大変豊かな2時間半でした。

2010年4月29日木曜日

鰰 出世魚

25/04/2010

日曜日の朝9時45分から夕方5時半のクロージングまで、なんと天気の良い一日を丸々春風舎で過ごしてしまった。昼休みの神里・白神トークの大部分を聞き逃した以外はフル参加。バカといわれても仕方ない。いや、自分としては「これに一日つきあうのはバカです」と言いたいのではなくて、それだけ白神・神里に期待するところ大なのです、ということですが。

大いに楽しんだ。が、「突き抜けること」についてちょっと考え込んでしまった。

端的だったのは白神ももこのダンス。アイディアがあったり気が利いてたり、そういうの、もう知ってるよ、最後にやった「しゃべってるみたいに踊る」のを、最初から、20分でよいから、やってくれよ、と思ってしまった。そこには「気合い入れて突き抜ける方向へと全速力で走る」ことへの拒絶や疑義や照れや臆病さがある気がした。こういうのを「食い足りない」とか「欲求不満」というのだろうか。

バー齋藤、真田真プレゼンテーション、デブ学講座、一人ものまね王座決定戦、ストレッチWS、ソロダンス、新川崎コーラスセンター、みんな面白かったのだ。そして、面白い中にも「春風舎を一つの色で染めてしまわないように」するような意図が感じられて、それも悪くないと思う。でも一方で、それらすべてを、たとえば2時間一本勝負の中に押し込めて核融合を起こして、
"Amazing Splash of Colours"
を引き起こすことも可能だったのではないかと、僕は夢想する。白神・神里がどう思っているかは別として、僕はそういう出し物がたくさん観てみたいと思っている。また、それが可能なパフォーマーが揃っていたよ、とも思っている。

2010年4月26日月曜日

キラリ☆ふじみプロデュース LOVE the world

24/04/2010 ソワレ

多田淳之介氏のキラリ☆ふじみ芸術監督就任第一作。東京デスロックで上演した"LOVE"を下敷きに再構成、韓国人俳優4人と日本人俳優4人の混成部隊で。

初演時の、ややもすると観客を振り落とすような、受け付けないような、目つきの鋭そうな空気が、あたたかく観客席に手を差し伸べてくるような包容力に姿を変えていた。同じモチーフに基づきながら、また、突きつけるもののインパクトをそのままに、洗練と成熟を感じた。

冒頭、役者がカラフルな衣装にメガネ、同じくカラフルなスーツケースにグッズを満載して登場したのに、まず驚く。
LOVEの一連のシリーズでは、冒頭出てくる役者に「出来るだけ記号を背負わないように」させて、とはいっても役者の個人史は役者の身体にきっちり予め刻まれているのだから、そこまで消し去って舞台に載せるわけはいかない、そのギャップにどう折り合いをつけていくか、どうやって「今、ここにある身体」に集中するか、がミソだったと思う。

それが、今回はいきなり冒頭から記号をまとった役者達が舞台に現われる。メガネ、スーツケース、枕、水、鍋、着替え、本などなど。お、やっぱり多国籍軍ともなると、あらかじめ共通の「裸の身体」で舞台に立ってくれとはおいそれと言えないわけですか?と思う。

その後、一旦は役者達はその記号を落としてしまうのだけれど、後半再度記号どもを身に纏い始める。冒頭着ていた記号と違うものを身に着けて。言葉はなく、せわしなく舞台上を歩き回る。ぶつかる、袖が触れ合う、すれ違う。でもそこにもやはり言葉のコミュニケーションは生じない。そこにはこれまでの「言葉のコミュニケーションでもどこにも連れて行ってもらえないこと」への苛立ち、言葉以前のコミュニケーションへの憧憬のようなものは無くなっていて、「記号を纏った者同士のコミュニケーション不在へのあきらめ」があるように思われる。それは、とてもさびしい現状肯定のようにも受け取れる。初演時、少なくとも夏目慎也はどこへとも知れずはしごを昇って進んでいった。今回、役者達はお互いに言葉を交わすことなく、各自の記号を纏って退場する。ラストの視線の交わりになにがしかの希望の芽はあるのか...

大きな舞台で演じられるLOVEは、空間が大きい分だけ包容力を増したように思われた。狭い場所で観るLOVEは、若干intimidatingな感じがして、息が詰まることもある。「大きな空間でも大丈夫じゃん」という自信と余裕は、この3年間のLOVEの公演の成果だと思う。「小劇場演劇」ではなくて、れっきとした「舞台表現」なんだと思い知った。

2010年4月25日日曜日

甘もの会 どどめジャム

23/04/2010 ソワレ

前作「炬燵電車」がとっても不思議な感じで、第2回公演も必ず観ようと思っていた。同じ肥田知浩氏の戯曲を使って、新川の小さなアトリエでの公演。正直なところ、期待通りに世界が広がりをみせなかったことにフラストレーションを感じた。戯曲のせいだと思う。

「炬燵」も「どどめ」も、「記憶」を軸に組みあがった戯曲である点は共通している。ただし「どどめ」の記憶は、主人公の男の一人称視点での過去の記憶と未来の記憶がある時点で交錯する「縦の編み方」であるのに対して、「炬燵」の記憶は、炬燵の周りの空間をハブにして、そこに出入りする登場人物たちの視点と複数の記憶が交錯する「横の広がり」を持っていた。いずれも小さい空間での上演を前提として、そこから世界をどう広げるかが勝負どころの芝居なのだけれど、「炬燵」の周りにぶわーっと世界が広がっていった感覚を思い出すと、やはり「炬燵」に軍配を上げてしまう。

加えて、一人称芝居で記憶を交錯させられると、どうしても早い段階で「オチの読める」展開になりがちで、そこも惜しかったと思う。石担ぎ、モンゴル相撲、飴拾いなど、魅力的なモチーフが散りばめられているだけに、それらの人物の「視線」が加わると、もっと立体的に芝居の時空が立ち上がったのじゃないかという気もした。

室内が屋外に化けられるか、というのも大きな命題で、やはり、こういう小さな小屋で、役者のすぐ後ろが白い壁という制約はなかなか乗り越えがたかったのだろうという印象。違う小屋で、視点の加わった「別バージョン」が出てきたら、それは観に行きたいと思うかもしれない。

山内健治 舌切り雀

22/04/2010 武蔵小金井四谷怪談のアフターなんとか

フランス語、観客参加型、日本語字幕付き。フランスの40を超える場所ー小学校、病院、友人宅、公民館ーで、子供を前に上演してきた山内健司氏の一人芝居の日本初演。

すげー。余裕の立合いで劇場をグリップしながら、一瞬でも目を離したら切るぞという気迫みなぎる。「現代口語演劇」の立ち上がりから洗練までを身をもって創り上げてきた役者が、フランスのガキどもの前に丸腰で立って「どーだ」とばかりに他流試合。そこで負ってきた無数の生傷が、笑顔の奥にうかがえる殺気の源か。

日本語の雀、フランス語の雀。視線の仕様も反応の仕様もまったく異なる中で「共通のなにかを見つけられるかられないかのきわめて狭いパス」をくぐっていく。ほんと、すげー。

青年団若手自主企画 武蔵小金井四谷怪談 再見

22/04/2010 ソワレ

再見。山内健司「舌切り雀」の日本初演を観に行ったというのが本当の理由なのだけれど、本編でもばっちりやられた。初日よりもさらに切れ味、完成度を増して、というより、この面子に「完成度」なんて言葉は失礼か。

「演劇は、そもそもが、ごっこ遊びなんです」という命題に立ち向かう時に、観客を安全な客席においておくのではなくて、また、観客参加型でも、さらに言うと客いじりでもなくて、でも「はい。じゃあなた、観てる人の役ね」と割り振って、その舞台を観る目(視線)をぐいぐいと舞台の時空に引っ張りこんでいく手管はすごい。

舞台上の演技を「リアル」と感じるためには、観客の中に「リアルに見えるための約束事」があるのが前提なのだけれど、岩井秀人の芝居はその「約束事」が観客によって違うことがよーくわかっていて、そのずれを巧みにこじあけにかかる。

芝居をみなれた観客であれば、ある程度「自分のリアルにとっての約束事ー約束A」と「芝居の約束事-約束B」を行き来しながら、舞台上で起きる出来事に一つ一つ辻褄をつけて、一貫した物語を作り上げるだろう。そのプロセスは、新劇であろうが夢の遊眠社であろうが青年団であろうが、変わることはない。約束Aと約束Bの前提の置き方次第で、芝居が楽しめなかったり楽しめたり、訳が分かったり分からなかったりするのだろう。岩井芝居の「視点の転換」「ズレ」は、約束Aと約束Bを絶えずゆさぶりながら、一つの固定した焦点を舞台上に結ぶ余地を観客に与えないのだ。

もちろん、約束Bを芝居の中で大胆に転換したりメタレベルに翔んだりして、そのことで約束Aをゆすぶってみるような芝居も数多くあるのだけれども、岩井芝居の「視点の転換」には、僕は、彼が「鳥瞰型・神様目線の現代口語演劇」ではなくて、「現代口語一人称芝居」を続けてきた後にしか提示し得ないものを感じる。

岩井秀人が世界の隅っこから世界を観るレンズ。その自分に他人のレンズが焦点を当てていると感じることについてのおそろしく肥大化した自意識。そこから、「その他人を観るさらに他の他人」「岩井と岩井を観る他人が同時に何かを観たときに何が起きるのか?」「岩井と岩井を観る他人が同時に何かを観たときに何かが起きていることについて、さらに他の他人は何かを感づいているのか?」「それらすべてを意識しながら舞台に乗せたら一体何が起きるのか?」
観る度にそういう凄みを感じて、何とも心地よく僕はおののく。

もちろんすべての役者素晴らしいのだけれど、この回は特に石橋亜希子にシビれた。役が切り替わる間の、むにゅうっとした時間の流れ方を完璧に支配。見えないストップウォッチを彼女がカチカチ押して、観客の意識の中の時間すらも止めたり進めたりしていた。

2010年4月20日火曜日

ワンダーランド/こまばアゴラ劇場 劇評セミナー 第1回

17/04/2010

平田オリザ、「劇場、劇団、劇評を語る」。
劇場と劇場法のことは沢山語ったけれど、劇評のことはあんまり語らなかったな。

昔「(文芸)評論家とは、馬の尻にたかるハエのようなもんだ」と言った人がいると聞いたことがある気がする。
(その辺の記憶が定かでなくて、馬にたかるアブだったか、牛にたかるハエだったか...)
どうやらそんな扱いな感じ。要は、平田オリザは劇評を「ないと困るもの」と発言したのだけれど、受けた印象としては逆で、平田にとって劇評は「なくてもあんまり困らないもの」なのではないかと感じられた。まぁ、そうだ。彼は世の中に劇評があろうがなかろうが、芸術活動を続けるに違いないのだから。

ただ、一方で、平田の海外(特にフランス)での活動を正当化するための裏付け材料として、平田自身が「誉めてるのかけなしてるのかよく分かんないんですよ」というようなフランスの劇評を使ってきたことは間違いなく、「なくても困らないもの」の効用を利用するのって、どーよ?という気もしないではない。まぁ、それも「いやいや、あるものは使ったらいいじゃない」と返されたらぐぅの音も出ないが。

そしてまた、平田の考える「アーツカウンシル」も、何かしらの言説に「権威」「権力」を持たせる試みなのだろうけれど、彼が一体そこに何を求めているのか(「どう利用したいのか」というのと「何を期待しているのか」の二つの意味で)も、今ひとつすっきりしなかったかな。

武藤・佐々木・水牛の三人の講師陣、こういうところについて一体何を思ったのか、聞いてみたい気はした。