27/03/2010 ソワレ
田上パルのふじみ「やぶれかぶれ」二本立て、二本目は、役者全員ふじみのオーディションで固めた「師走やぶれかぶれ女子高生バージョン」。
これもまた大いに楽しんだ。初演は初演で、多感な高校三年生男子の「将来って何だっけ」っていう無駄な悩みがとっても良かったのだけれど、今回は男子が女子に入れ替わって、カラッとした仕上がりになっていたと思う。「現役女子高生」たちが演じる「現役女子高生」達には、鯖読み女子高生にはないだろう元気と兇暴さが溢れて、うーん、やっぱりこういうのが観られるというのなら、「女子高生」と芝居創ってみたくもなるよなー。
でもね。がなる芝居・パワーを使う芝居は、粗が見えやすい。いや、粗があるように見えやすい。演出の要求に女子高生たちとても素直に、パワフルに応えていたとは思うけれど、せっかく女子高生なんだから、ハンドボール部のがさつな男子をそのままハンドボール部のがさつな女子に置き換えなくても良かったんじゃないのかなー、と思ったりもする。
「キミが高校時代に、思い描いていた(あるいは、あこがれていた)女子高校生って、実はもうちょっとがさつじゃなかったんじゃないの?そういう、ちょっと作・演出のドリームが入った女子高生が出てきても、それはそれで面白いんじゃないの?」
とも聞いてみたくなったりする。
まぁ、いいや。オレ、この戯曲好きだし。今後も、色んなバージョンで、色んなカラーの入った再演がされたらいいなー、と思う。がさつな女子でもがさつな男子でもがさつじゃない女子でも、はたまたがさつじゃない男子でも、色々な楽しみ方が出来る戯曲だと思う。そうなったらいいな。
2010年3月30日火曜日
田上パル 新春やぶれかぶれ
27/03/2010 マチネ
田上パルがふじみで創る「やぶれかぶれ」二本立て、一本目は「常連組」と「オーディション組」が出演する「新春やぶれかぶれ」。
まずは大いに笑い、楽しんだ。と同時に、ここのところ「高校ハンドボール部もの」からどうやって抜け出そうかと四苦八苦していた田上パルの今後の方向感が見えた気がして、「なんだかほっとした」のである。
芝居の基本的な組み立ては、「熊本弁口語演劇一幕物」+「老若男女問わぬあたりの激しいアクションと大騒ぎ」+「超常現象」+「泣いて笑って喧嘩して、手をつないでかーえろっと」で変わらず。ハンドボールものの「師走やぶれかぶれ(初演)」「アルカトラス合宿」や、先行きの苦労を予想させた「改造人間」「青春ボンバイエ」とそんなに変わらない。強いていえば人間関係の基本ユニットが「友人」から「家族」にすりかわったことか。
今回、同じ大騒ぎな芝居でも大きな心配なしで最後まで観ていられたのは、一言でいえば、バランスなのだろう。「熊本弁」や「大騒ぎ」にもたれすぎないバランスがあったから、アクションがつらくない。そういうバランスを長女、三男、三女の3人、特に長女が支えていたと思う。逆に次女は「イロモノ」演出がちょっと強すぎて「なにもここまで」という気もした(本人のせいというよりは、演出の要求だと思うが)。
なんにせよ。この芝居のバランスをさらにファインチューンしていく中で、果たして田上パルが今後も「熊本弁」にどこまで拘るのか、ちょっと面白い展開かなーとは思ったのである。本拠地は首都圏に置いているわけだし、役者陣も熊本出身者からさらに広がってるし、必ずしも熊本弁の芝居に拘らなくてよいのかもしれない。その時に、田上パルの芝居がどのように変わっていくものなのか、ちょっと興味深い。
田上パルがふじみで創る「やぶれかぶれ」二本立て、一本目は「常連組」と「オーディション組」が出演する「新春やぶれかぶれ」。
まずは大いに笑い、楽しんだ。と同時に、ここのところ「高校ハンドボール部もの」からどうやって抜け出そうかと四苦八苦していた田上パルの今後の方向感が見えた気がして、「なんだかほっとした」のである。
芝居の基本的な組み立ては、「熊本弁口語演劇一幕物」+「老若男女問わぬあたりの激しいアクションと大騒ぎ」+「超常現象」+「泣いて笑って喧嘩して、手をつないでかーえろっと」で変わらず。ハンドボールものの「師走やぶれかぶれ(初演)」「アルカトラス合宿」や、先行きの苦労を予想させた「改造人間」「青春ボンバイエ」とそんなに変わらない。強いていえば人間関係の基本ユニットが「友人」から「家族」にすりかわったことか。
今回、同じ大騒ぎな芝居でも大きな心配なしで最後まで観ていられたのは、一言でいえば、バランスなのだろう。「熊本弁」や「大騒ぎ」にもたれすぎないバランスがあったから、アクションがつらくない。そういうバランスを長女、三男、三女の3人、特に長女が支えていたと思う。逆に次女は「イロモノ」演出がちょっと強すぎて「なにもここまで」という気もした(本人のせいというよりは、演出の要求だと思うが)。
なんにせよ。この芝居のバランスをさらにファインチューンしていく中で、果たして田上パルが今後も「熊本弁」にどこまで拘るのか、ちょっと面白い展開かなーとは思ったのである。本拠地は首都圏に置いているわけだし、役者陣も熊本出身者からさらに広がってるし、必ずしも熊本弁の芝居に拘らなくてよいのかもしれない。その時に、田上パルの芝居がどのように変わっていくものなのか、ちょっと興味深い。
2010年3月25日木曜日
元祖演劇の素いき座 虫たちの日
21/03/2010
千穐楽。
土井通肇/森下眞理のお二人の芝居は、本当にずうっと観ていられる。箸の上げ下ろし、鰯の身を分ける仕草、汁をすする音、指をしゃぶってみる音、朝刊の質感、炊飯器から立ち上る湯気、足袋の汚れ、めがねが鬢に引っかかる感じ、きっと歯に引っかかっているのであろう筍のスジ。五感を総動員し、妄想をかき立てながら、70分間観ていて飽きることがない。
「何かが起きる」舞台を期待する方々には「この舞台では何も起きませんよ」と説明してしまおう。老夫婦が自宅で過ごすのろのろとした時間。一見平穏な夫婦の時間は、最後の最後まで一見平穏だ。だけれども、「70分何もなく過ぎる時間」を、いかに退屈せずに観ていられることか。当パンに「最後迄、頑張って御観劇下さい」とあるが、本当に頑張らないとただの何もない時間になってしまう。事件は待っていてもやってこない。「頑張って御観劇」する人は、初春のハイキングのように、あるいは初夏の道草のように、なにがしかの事件を見いだして興奮し、大抵の人がいまや「アナウンサーの絶叫つきの」「オリンピック」でしか味わえなくなった感動とやらに触れることが出来るかもしれない。もちろん触れられないかもしれないけれど、それはそれで、寄り道・道草にはつきもののことだ。
まぁ、この芝居が扱うテーマが「老い」であることは間違いなくて、それを演じるお二人の平均年齢が少なくとも観客席の平均年齢よりは「老い」に近いことも間違いなくて、どうしても、芝居を観ながら何度も「耄碌」という単語を思い出してしまった。耄碌するとはどういう状態か。過去形で物事を語るとはどういうことか。「幸せでした」と語る人は、幸せなのか不幸せなのか。
いき座が今後も公演を続ける中で、いや、どんな劇団のどんな芝居でもいいや、芝居が公演される中で、観客としての僕が耄碌に近づいていくことは間違いないし、演じる役者も、演出家も、耄碌に近づいているだろうことも、これもほぼ間違いない。矍鑠としている、しゃんとしている、ということは、すなわち「一般に予想されているよりも耄碌の度合いが少ない」ということであって、若い者の方がより耄碌していたりはしないのである。耄碌すれば視野も狭くなり、身体も動かなくなり、五感も鈍るに違いない。鈍らないと言い切るのはウソだ。でも、耄碌に近づいたために世界が豊かさを失うとは思えない。どのように、のろのろと、豊かさを吐き出しながら、耄碌に近づいていくのか。若干自分を意地悪だと自覚しつつも、いき座の舞台はいつまでも追っていたい。土井さんと私がどう耄碌していくのか、確かめたい。その、耄碌に(立ち)向かう極北にいき座の舞台は聳える。
千穐楽。
土井通肇/森下眞理のお二人の芝居は、本当にずうっと観ていられる。箸の上げ下ろし、鰯の身を分ける仕草、汁をすする音、指をしゃぶってみる音、朝刊の質感、炊飯器から立ち上る湯気、足袋の汚れ、めがねが鬢に引っかかる感じ、きっと歯に引っかかっているのであろう筍のスジ。五感を総動員し、妄想をかき立てながら、70分間観ていて飽きることがない。
「何かが起きる」舞台を期待する方々には「この舞台では何も起きませんよ」と説明してしまおう。老夫婦が自宅で過ごすのろのろとした時間。一見平穏な夫婦の時間は、最後の最後まで一見平穏だ。だけれども、「70分何もなく過ぎる時間」を、いかに退屈せずに観ていられることか。当パンに「最後迄、頑張って御観劇下さい」とあるが、本当に頑張らないとただの何もない時間になってしまう。事件は待っていてもやってこない。「頑張って御観劇」する人は、初春のハイキングのように、あるいは初夏の道草のように、なにがしかの事件を見いだして興奮し、大抵の人がいまや「アナウンサーの絶叫つきの」「オリンピック」でしか味わえなくなった感動とやらに触れることが出来るかもしれない。もちろん触れられないかもしれないけれど、それはそれで、寄り道・道草にはつきもののことだ。
まぁ、この芝居が扱うテーマが「老い」であることは間違いなくて、それを演じるお二人の平均年齢が少なくとも観客席の平均年齢よりは「老い」に近いことも間違いなくて、どうしても、芝居を観ながら何度も「耄碌」という単語を思い出してしまった。耄碌するとはどういう状態か。過去形で物事を語るとはどういうことか。「幸せでした」と語る人は、幸せなのか不幸せなのか。
いき座が今後も公演を続ける中で、いや、どんな劇団のどんな芝居でもいいや、芝居が公演される中で、観客としての僕が耄碌に近づいていくことは間違いないし、演じる役者も、演出家も、耄碌に近づいているだろうことも、これもほぼ間違いない。矍鑠としている、しゃんとしている、ということは、すなわち「一般に予想されているよりも耄碌の度合いが少ない」ということであって、若い者の方がより耄碌していたりはしないのである。耄碌すれば視野も狭くなり、身体も動かなくなり、五感も鈍るに違いない。鈍らないと言い切るのはウソだ。でも、耄碌に近づいたために世界が豊かさを失うとは思えない。どのように、のろのろと、豊かさを吐き出しながら、耄碌に近づいていくのか。若干自分を意地悪だと自覚しつつも、いき座の舞台はいつまでも追っていたい。土井さんと私がどう耄碌していくのか、確かめたい。その、耄碌に(立ち)向かう極北にいき座の舞台は聳える。
中野成樹+フランケンズ スピードの中身
20/03/2010
素晴らしいの一言。技量、熱意、着意、どれをとっても一級品。声高でなく、でも自信に満ちて、押しつけではなく、でも熱量がこちらに伝わってくる。国宝級の職人技をばっちり鑑賞させていただいた様な、本当に贅沢な時間を堪能。
芝居が始まって、この、どこと特定し難い時空と「不条理劇」と呼んでも良いようなシチュエーション、ちょっと懐かしい気がした。1989年3月、青年団の「海神」。7人の登場人物 - やり投げの選手やアテネや風神やその他神々ともそうでないとも取れる者たち ー が、コーヒーメーカーややり投げや海流や戦争について語る芝居。本当に分からない芝居だったけれど、そういえば当時の平田オリザは「難しいことは悪いことではないと信じている」という、一種開き直りともとれる文章を当日パンフに書いたのを覚えている。今回、終演後中野氏の当パン挨拶読んだら、「わかりづらくてもいいじゃないか」。この気合い、素晴らしい。
こういう気合いに満ちた芝居が、屁難しさの中で自閉するのではなく、きっちりエンターテイニングに完成度高く観客に示されることを、素直に観客の一人として慶びたい。
まず、テクストの強度。小生不勉強でブレヒトの原作読んだことないから、どこまでがオリジナルでどこからが石神氏・中野氏・現場の役者による追加・変更なのか知る由もないが、この上演台本がかなり「すごい」ことは間違いない。なんだか社会主義チックな会議の場、絶えず抽象的な屁理屈が散りばめられながら、行き先は「生死の境界」という極めて具体的かつ白黒はっきりさせなければならない話題。その場その場の個別の具体性が抽象を裏切りながら場面が進行し、ぐいぐいとどこへでもない場所へと引き込まれた。
勿論それを体現する役者も良し。フランケンズの役者がみんな達者であることは疑うべくもないけれど、「公衆に対して絶えず開かれた、なんだかテレビの討論会のような場所」に適度な筋力で立って、がっちり世界を支えていた。
場所。航空発祥記念館と芝居本体のバランス良し。「Zoo Zoo Scene」では動物園の面白さが勝って、芝居は淡泊な味わいがどうしても拭えなかったのだけれど、今回は場所が芝居をじゃませず、かつ、なんだかわからないスパイスを与えて、面白い。前半、村上聡一氏の「飛んでました」「落ちました」の台詞にあわせて、窓の外、村上氏のはるか向こうを、まだ日が落ちていない空と草木をバックに紙飛行機が飛んで、落ちた。フィクションと現実が僕(観客)の脳内で小さくスパークした瞬間。
一つ一つの要素がいちいち気が利いていて、でも、それが、「一点豪華」でも「なんだか気の利いたことを思いついたつもり?」でもなく、それぞれがまるで「必然」のごとくにガッチリ組合わさっていた。こういう芝居がみられるのは、本当、幸せな経験だ。中フラの皆様に多謝、多謝。
素晴らしいの一言。技量、熱意、着意、どれをとっても一級品。声高でなく、でも自信に満ちて、押しつけではなく、でも熱量がこちらに伝わってくる。国宝級の職人技をばっちり鑑賞させていただいた様な、本当に贅沢な時間を堪能。
芝居が始まって、この、どこと特定し難い時空と「不条理劇」と呼んでも良いようなシチュエーション、ちょっと懐かしい気がした。1989年3月、青年団の「海神」。7人の登場人物 - やり投げの選手やアテネや風神やその他神々ともそうでないとも取れる者たち ー が、コーヒーメーカーややり投げや海流や戦争について語る芝居。本当に分からない芝居だったけれど、そういえば当時の平田オリザは「難しいことは悪いことではないと信じている」という、一種開き直りともとれる文章を当日パンフに書いたのを覚えている。今回、終演後中野氏の当パン挨拶読んだら、「わかりづらくてもいいじゃないか」。この気合い、素晴らしい。
こういう気合いに満ちた芝居が、屁難しさの中で自閉するのではなく、きっちりエンターテイニングに完成度高く観客に示されることを、素直に観客の一人として慶びたい。
まず、テクストの強度。小生不勉強でブレヒトの原作読んだことないから、どこまでがオリジナルでどこからが石神氏・中野氏・現場の役者による追加・変更なのか知る由もないが、この上演台本がかなり「すごい」ことは間違いない。なんだか社会主義チックな会議の場、絶えず抽象的な屁理屈が散りばめられながら、行き先は「生死の境界」という極めて具体的かつ白黒はっきりさせなければならない話題。その場その場の個別の具体性が抽象を裏切りながら場面が進行し、ぐいぐいとどこへでもない場所へと引き込まれた。
勿論それを体現する役者も良し。フランケンズの役者がみんな達者であることは疑うべくもないけれど、「公衆に対して絶えず開かれた、なんだかテレビの討論会のような場所」に適度な筋力で立って、がっちり世界を支えていた。
場所。航空発祥記念館と芝居本体のバランス良し。「Zoo Zoo Scene」では動物園の面白さが勝って、芝居は淡泊な味わいがどうしても拭えなかったのだけれど、今回は場所が芝居をじゃませず、かつ、なんだかわからないスパイスを与えて、面白い。前半、村上聡一氏の「飛んでました」「落ちました」の台詞にあわせて、窓の外、村上氏のはるか向こうを、まだ日が落ちていない空と草木をバックに紙飛行機が飛んで、落ちた。フィクションと現実が僕(観客)の脳内で小さくスパークした瞬間。
一つ一つの要素がいちいち気が利いていて、でも、それが、「一点豪華」でも「なんだか気の利いたことを思いついたつもり?」でもなく、それぞれがまるで「必然」のごとくにガッチリ組合わさっていた。こういう芝居がみられるのは、本当、幸せな経験だ。中フラの皆様に多謝、多謝。
2010年3月21日日曜日
ままごと スイングバイ
19/03/2010 ソワレ
とても面白かった。チケット完売になって全くおかしくない出来で、誰にでも薦められる。大胆な発想・構成と、細部までの細やかな視点が共存して、ケチのつけよう無し。
存じ上げている役者、好きな役者、沢山出演していたけれど、やっぱり一番うれしかったのは、板倉チヒロさんがとても良かったことかな。常日頃すっごくいい役者だとは思っていたものの、「よし、これだ!」と思える作品で拝見したことなかったので。
それにしても、この、全編を通して漂う「ポジティブな感じ」はいったい何なんだろうと考えた。「あゆみ」も「わが星」も今回の「スイングバイ」も。人間生まれて死ぬ。ただ単にそれにポジティブだと「人生って美しい!命のカガヤキ!」みたいな「美しい人間賛歌」になってしまうのだけれど、必ずしもそういう意味ではなくて。
どちらかというと、死んだ者たちが必ずしもカタチにならないにせよ何かしら現世に残していく痕跡に対する、アプリオリな、ほぼナイーブといって良いほどの「信頼」の様なものを感じている。「あゆみ」では、一人が倒れようともその後に続くあゆみーずが歩みを続けていくことへの信頼感、「わが星」では、星が生まれて死んで、でもそれは必ず誰かによって見守られているという信頼感、また、死んだ星の塵からまた新たな星が生まれることへの根拠のない確信。「スイングバイ」はまさにタイトルの通りで、次々に「文字通り」引き継がれるカバン、書類、仕事。それらを引き渡した後は、「スイングバイ」により新たな方向へ加速度をもって進んでいく。途上で倒れても、カバン・書類・仕事は引き継がれてきたし、今後もきっと誰かに引き継がれていくという信頼感。自分のしていることはきっと誰かが見守っている、そして、それはどこへも消え去らずに、(たとえそれが未整理の倉庫であっても)積み重なる歴史の高層建築の中で一枚の薄い化石のように残るのだという根拠なき確信。
悪意のある言い方をすれば、そういった信頼や確信は、美しいかもしれないけれど、現実には起こり難いのではないかと言うことも可能だ。もちろん、こういう美しいものは、特に柴幸男のような力のある作・演出の手に掛かると、細部まできっちりと糊代が処理されて、「ノレる」芝居にできあがる。だから、泣ける。一方でそれを「危ない」と感じる人もいるだろう。「ウソかもしれないけど、少なくとも美しいじゃん?」という釣り言葉は、70年前の日本のことを考えると確かに危ない。
が、2006年の「美しい国」のスローガンには少なくとも日本は「ノラ」なかったわけだし(もちろん、押し出しの巧拙は較べるべくもないけれど)、柴氏はきっとそんなこと考えて芝居作っているわけではないので、ひょっとするとそれは「作劇術」の一環でしかないのかもしれない。
作劇術のコンテクストで語るとすれば、「スイングバイ」のように、時間と空間に明確なベクトルを与えて「フレームに破綻はない」という安心感を与える方法は、最近の松井周の作劇と対照することができると思う。
「スイングバイ」は、「柴のフレームに破綻はない」ことへの安心感があるから、どんなに時間・シチュエーションが小刻みに飛んでも、観客は不安にならない。観客は、いずれはすべてが300万年前から未来永劫へと延びるエレベーターの流れに回収されるのだという前提で観ていることができるから。
一方で、松井の、たとえば「あの人の世界」は、時空をとばすようなことがないにも関わらず、そして、演技はいわゆる「現代口語演劇」であるにもかかわらず、空間がどこに続いていくのか、時間がどこへ向かって流れるのか、観客は決め手を欠くままその場に放置される。その不安さ、居心地の悪さ、気持ち悪さ。劇中人物に「ボールが地面に落ちたらその時点でこの世界はお終い」と言わせてしまう、未来への悪意といっても良いような振る舞い。
もちろん良し悪しではない。僕は、正直言ってどちらも好きです。個人的に「スイングバイ」で示された世界観は共有していないけれど。が、まずもって、芝居に示された世界観と柴氏の、あるいはプロダクションのメンバーの世界観が一致する必要はないし、そもそもそれは「数ある世界観のうちの一つ」でしかない。
それを前提とした上で、今回の「スイングバイ」で「あえて」曖昧なものとなった「退出時、なぜ小梁はエレベーターを上に昇るのか」「秀三郎はなぜそこにい続けられるのか」、のその先を柴氏が今後描いていくのかに興味がある。それは、「あゆみ」のレーンの外、暗い部分では何が起きているのか、「わが星」の舞台の周りの暗闇や床下では何が起きているのか、ということでもある。そういう部分に今後光が当たるのか当たらないのか。それは今後繰り広げられるままごとの中で、切り捨てられるものなのか掬い上げられるものなのか。
いずれにせよ、本当に目が離せない、ということは断言します。
とても面白かった。チケット完売になって全くおかしくない出来で、誰にでも薦められる。大胆な発想・構成と、細部までの細やかな視点が共存して、ケチのつけよう無し。
存じ上げている役者、好きな役者、沢山出演していたけれど、やっぱり一番うれしかったのは、板倉チヒロさんがとても良かったことかな。常日頃すっごくいい役者だとは思っていたものの、「よし、これだ!」と思える作品で拝見したことなかったので。
それにしても、この、全編を通して漂う「ポジティブな感じ」はいったい何なんだろうと考えた。「あゆみ」も「わが星」も今回の「スイングバイ」も。人間生まれて死ぬ。ただ単にそれにポジティブだと「人生って美しい!命のカガヤキ!」みたいな「美しい人間賛歌」になってしまうのだけれど、必ずしもそういう意味ではなくて。
どちらかというと、死んだ者たちが必ずしもカタチにならないにせよ何かしら現世に残していく痕跡に対する、アプリオリな、ほぼナイーブといって良いほどの「信頼」の様なものを感じている。「あゆみ」では、一人が倒れようともその後に続くあゆみーずが歩みを続けていくことへの信頼感、「わが星」では、星が生まれて死んで、でもそれは必ず誰かによって見守られているという信頼感、また、死んだ星の塵からまた新たな星が生まれることへの根拠のない確信。「スイングバイ」はまさにタイトルの通りで、次々に「文字通り」引き継がれるカバン、書類、仕事。それらを引き渡した後は、「スイングバイ」により新たな方向へ加速度をもって進んでいく。途上で倒れても、カバン・書類・仕事は引き継がれてきたし、今後もきっと誰かに引き継がれていくという信頼感。自分のしていることはきっと誰かが見守っている、そして、それはどこへも消え去らずに、(たとえそれが未整理の倉庫であっても)積み重なる歴史の高層建築の中で一枚の薄い化石のように残るのだという根拠なき確信。
悪意のある言い方をすれば、そういった信頼や確信は、美しいかもしれないけれど、現実には起こり難いのではないかと言うことも可能だ。もちろん、こういう美しいものは、特に柴幸男のような力のある作・演出の手に掛かると、細部まできっちりと糊代が処理されて、「ノレる」芝居にできあがる。だから、泣ける。一方でそれを「危ない」と感じる人もいるだろう。「ウソかもしれないけど、少なくとも美しいじゃん?」という釣り言葉は、70年前の日本のことを考えると確かに危ない。
が、2006年の「美しい国」のスローガンには少なくとも日本は「ノラ」なかったわけだし(もちろん、押し出しの巧拙は較べるべくもないけれど)、柴氏はきっとそんなこと考えて芝居作っているわけではないので、ひょっとするとそれは「作劇術」の一環でしかないのかもしれない。
作劇術のコンテクストで語るとすれば、「スイングバイ」のように、時間と空間に明確なベクトルを与えて「フレームに破綻はない」という安心感を与える方法は、最近の松井周の作劇と対照することができると思う。
「スイングバイ」は、「柴のフレームに破綻はない」ことへの安心感があるから、どんなに時間・シチュエーションが小刻みに飛んでも、観客は不安にならない。観客は、いずれはすべてが300万年前から未来永劫へと延びるエレベーターの流れに回収されるのだという前提で観ていることができるから。
一方で、松井の、たとえば「あの人の世界」は、時空をとばすようなことがないにも関わらず、そして、演技はいわゆる「現代口語演劇」であるにもかかわらず、空間がどこに続いていくのか、時間がどこへ向かって流れるのか、観客は決め手を欠くままその場に放置される。その不安さ、居心地の悪さ、気持ち悪さ。劇中人物に「ボールが地面に落ちたらその時点でこの世界はお終い」と言わせてしまう、未来への悪意といっても良いような振る舞い。
もちろん良し悪しではない。僕は、正直言ってどちらも好きです。個人的に「スイングバイ」で示された世界観は共有していないけれど。が、まずもって、芝居に示された世界観と柴氏の、あるいはプロダクションのメンバーの世界観が一致する必要はないし、そもそもそれは「数ある世界観のうちの一つ」でしかない。
それを前提とした上で、今回の「スイングバイ」で「あえて」曖昧なものとなった「退出時、なぜ小梁はエレベーターを上に昇るのか」「秀三郎はなぜそこにい続けられるのか」、のその先を柴氏が今後描いていくのかに興味がある。それは、「あゆみ」のレーンの外、暗い部分では何が起きているのか、「わが星」の舞台の周りの暗闇や床下では何が起きているのか、ということでもある。そういう部分に今後光が当たるのか当たらないのか。それは今後繰り広げられるままごとの中で、切り捨てられるものなのか掬い上げられるものなのか。
いずれにせよ、本当に目が離せない、ということは断言します。
2010年3月20日土曜日
輝く未来 ブチ込ミ、ヤミ鍋、舌ツヅミ
14/02/2010 マチネ
輝く未来、初見。
予想に反して、といっては失礼かもしれないが、とても生真面目なダンス、という印象だった。
縦軸を構成するモチーフがあるとすれば、僕的には「ロード・オブ・ザ・リング+2001年宇宙の旅÷2」。天から降ってくるリング二つと、原初のノイズから始まるパフォーマーたちの動き。それらが組合わさって、最初は脈絡のなかったノイズ+痙攣的な動きが、徐々にリズムをもって織り上げられていく。
そこまでは引き込まれたのだけれど、中盤以降の展開で、観ている側の集中力が続かなかった。せっかくお膳立てされたモチーフの上にカラーがうまく乗らないなー、と思って観ていたら、最後までそれが続いて、食い足りない。
妙なケレンで場を持たせようという態度がないのには好感持てるにしても、やっぱりなにがしかの「異物感」が、僕がダンスを観るときには「集中・好奇心を保たせるためのスパイス」として作用しないと素人の僕の集中は続かないのか、それとも、僕はモチーフへの色付け、変奏を期待していたのか。
まだまだ、ダンスの面白いところを見つけて入り込むところまで来ていないのだろうか、とつくづく思う。
輝く未来、初見。
予想に反して、といっては失礼かもしれないが、とても生真面目なダンス、という印象だった。
縦軸を構成するモチーフがあるとすれば、僕的には「ロード・オブ・ザ・リング+2001年宇宙の旅÷2」。天から降ってくるリング二つと、原初のノイズから始まるパフォーマーたちの動き。それらが組合わさって、最初は脈絡のなかったノイズ+痙攣的な動きが、徐々にリズムをもって織り上げられていく。
そこまでは引き込まれたのだけれど、中盤以降の展開で、観ている側の集中力が続かなかった。せっかくお膳立てされたモチーフの上にカラーがうまく乗らないなー、と思って観ていたら、最後までそれが続いて、食い足りない。
妙なケレンで場を持たせようという態度がないのには好感持てるにしても、やっぱりなにがしかの「異物感」が、僕がダンスを観るときには「集中・好奇心を保たせるためのスパイス」として作用しないと素人の僕の集中は続かないのか、それとも、僕はモチーフへの色付け、変奏を期待していたのか。
まだまだ、ダンスの面白いところを見つけて入り込むところまで来ていないのだろうか、とつくづく思う。
2010年3月14日日曜日
みやざき◎まあるい劇場 青空
12/03/2010 ソワレ
2年ぶりのみやざき◎まあるい劇場。東京に来るのを本当に楽しみにしていたのだが、その期待を一つも裏切ることなく、素晴らしい舞台。
和田祥吾は2年前と同様、舞台上の空気をがっちり支配して隅々にまで睨みを利かせ、「生まれてきた人」たちが劇場の空間を切り裂く様はジミヘンのギターの様に暴力的で、感情の真皮を突く。
前回の「隣の町」が、生者の町と死者の町を併置して、お互いの町の住人たちが「出会う」場を描いていたのに対し、今回は「取り壊しを控えた廃棄されたプラネタリウム」という場を用意し、出会いの場に歴史の厚みが加わった。
兄ー弟、老いた夫ー妻、元夫ー元妻、傘売りー友人達、というように、1対1の対話を基本単位にして、それらを地層のように積み重ねながら、そこに描かれるのは「物語」ではなく、「世界」である。混沌とし、脈絡を欠き、残酷で、取り戻しようもなく、辛いからといって全否定もできないやっかいなもの。
これは誰の話なのか。誰の視点なのか?管理人の夢なのか?老いた夫の妄想が作った世界なのか。若い男女は老いた男女の過去の姿なのか?取り戻したい歴史なのか?弟は本当に兄を待っているのか?それは「実在する」兄なのか「実在した(そして今は実在しない)」兄なのか?本当に彼らは兄弟なのか?兄の妄想なのか?弟の妄想なのか?人々はどこからきたのか?
いや、実はこれらの人々の組み合わせに「物語上の必然」はそもそもないのだろう。そういう、どうにも把握できない「やっかいな」ものとしてこの世界は提示される。
そして、そのやっかいな世界の縦軸を担ってこの舞台の脊椎となるのが「生まれてきた人」たち。もがき、あがき、手足をバタバタさせ、やがて立ち、叫び、互いに触れ、去る。そこに進化はあるのか?進歩はあるのか?相互理解はあるのか?そんなことはパフォーマーも作・演も知りはしないだろう。あるのは「生まれてきて」「歩いて去っていった」ということだけだ。彼女たちが歩み去ったその徴は、もはや観客の記憶の中にしかなく、個人の歴史の地層の薄い層の中に閉じこめられる。でも「どこかに向かって行った」ことだけは、確かなこととして覚えていたくなる。
そうやって観ていたら、ふと、この対話と時間の混沌とした積み重ねは「昏睡」でも試みられていたのだと気がついた。迂闊だった。このやっかいさを、「昏睡」ではたった2人の役者によって担おうとしていたのか。なんたる蛮行、なんと遠い道のり。是非「昏睡」の再演、お願いします。
2年ぶりのみやざき◎まあるい劇場。東京に来るのを本当に楽しみにしていたのだが、その期待を一つも裏切ることなく、素晴らしい舞台。
和田祥吾は2年前と同様、舞台上の空気をがっちり支配して隅々にまで睨みを利かせ、「生まれてきた人」たちが劇場の空間を切り裂く様はジミヘンのギターの様に暴力的で、感情の真皮を突く。
前回の「隣の町」が、生者の町と死者の町を併置して、お互いの町の住人たちが「出会う」場を描いていたのに対し、今回は「取り壊しを控えた廃棄されたプラネタリウム」という場を用意し、出会いの場に歴史の厚みが加わった。
兄ー弟、老いた夫ー妻、元夫ー元妻、傘売りー友人達、というように、1対1の対話を基本単位にして、それらを地層のように積み重ねながら、そこに描かれるのは「物語」ではなく、「世界」である。混沌とし、脈絡を欠き、残酷で、取り戻しようもなく、辛いからといって全否定もできないやっかいなもの。
これは誰の話なのか。誰の視点なのか?管理人の夢なのか?老いた夫の妄想が作った世界なのか。若い男女は老いた男女の過去の姿なのか?取り戻したい歴史なのか?弟は本当に兄を待っているのか?それは「実在する」兄なのか「実在した(そして今は実在しない)」兄なのか?本当に彼らは兄弟なのか?兄の妄想なのか?弟の妄想なのか?人々はどこからきたのか?
いや、実はこれらの人々の組み合わせに「物語上の必然」はそもそもないのだろう。そういう、どうにも把握できない「やっかいな」ものとしてこの世界は提示される。
そして、そのやっかいな世界の縦軸を担ってこの舞台の脊椎となるのが「生まれてきた人」たち。もがき、あがき、手足をバタバタさせ、やがて立ち、叫び、互いに触れ、去る。そこに進化はあるのか?進歩はあるのか?相互理解はあるのか?そんなことはパフォーマーも作・演も知りはしないだろう。あるのは「生まれてきて」「歩いて去っていった」ということだけだ。彼女たちが歩み去ったその徴は、もはや観客の記憶の中にしかなく、個人の歴史の地層の薄い層の中に閉じこめられる。でも「どこかに向かって行った」ことだけは、確かなこととして覚えていたくなる。
そうやって観ていたら、ふと、この対話と時間の混沌とした積み重ねは「昏睡」でも試みられていたのだと気がついた。迂闊だった。このやっかいさを、「昏睡」ではたった2人の役者によって担おうとしていたのか。なんたる蛮行、なんと遠い道のり。是非「昏睡」の再演、お願いします。
登録:
投稿 (Atom)