2008年4月30日水曜日

鉄割アルバトロスケット 日常サウンド大根 大根+1

29/04/2008 ソワレ

こんなにカッコいいエストラゴンの登場は観たことがない。こんなにイカれた子供の登場も観たことがない。それだけで観に来た価値があった。

昔っから、ゴドー待ちはドリフがやるべきで、
エストラゴン=荒井注で決まり。
子供=加藤茶で決まり。
ラッキー=高木ブー。
ウラジミール=迷う。いかりや長介。
ポッツォ=消去法で仲本工事。
という配役まで考えてたのだけれど、このメンバーじゃ出来ない今となっては、ゴドー待ち、他に任せるテはない。そうだ、鉄割がいたんだった、と思った次第です。

「日常サウンド大根」三本立て、すべて拝見したけれど、だからといって、特に自分が好き物だとは思わない。3本で4500円。総上演時間3時間強。
変な商業演劇観るよりよっぽど面白いし、も1つ乱暴に言えば、ケラさんの芝居3時間強のもの一本観るよりよっぽど面白い、と、僕は少なくとも思った。一日一本、次の日が楽しみなのもまたよし。それぞれを一生懸命観れるし。楽しかった。

Oi-Scale 茶毒蛾無呼吸引金

29/04/2008 マチネ

2時間かけて追いかけるヤクザがらみの兄弟愛物語、フィルムノワールならぬ芝居ノワール。下手をすると始まって5分でもう飽きて、後の1時間50分お尻の痛い思いをしかねないプロットだが、2時間堪能させていただきました。

まずは冒頭の旧友再会シーン、ドライブ感のある台詞回しでぎゅっと観客をつかんで、かつ、「この芝居ならどんなに物語が盛り上がってもまかり間違っても面切って声を張り上げて愛を叫ばないに違いない」という信頼感をつくっておいて、そこへ持ってきて
「地元」へのしがらみ・閉塞感と「抜ける・抜けない」のモチーフ、それに暴力の香りを加えて後半へとつなげていく。

クライマックスに掛けての加速感は、何だか、「これ、なにも芝居でなくても、映画でもよかったんじゃないか」的なアナクロ芝居親父感覚をどうして も呼び寄せてしまうし、物語自体はベッタベタなので、いつ途中で「もういいや」となってしまうか心配になるが、演出・役者がよく踏みとどまって、物語の渦 に演技が呑み込まれる一歩手前で2時間持たせてくれた。

演技と平行の「心理描写朗読作戦」はそんなに上手くいってるとは思わないが、でも、それ、台詞と演技で処理したならくどくて長い芝居になりかねなかった気もするので、そこも許すとして、「このテの」芝居としてはまず合格点。

乱暴な比較をすると、シャンプーハットからねっとりと暑苦しい作・演出の主義主張・熱い思いを削ぎとって、人情ものにフォーカスした結果観やすく仕上がった、という印象が残った。

2008年4月29日火曜日

鉄割アルバトロスケット 日常サウンド大根 Life is 日常曼荼羅

28/04/2008 ソワレ

連休の谷間でカレンダー通りに仕事して、何となく気持ちがずーっと塞いでいた一日。開演前ビールも売られていたけれど、ビール一杯で悪酔いの予感がしてそれすらも遠慮。鉄割を見るのには極めてノリの悪い状態。

が、そんな一観客の事情には全く関知することなく、鉄割は今日も面白かった。つべこべ言わずに、「あー、変だ」とか「あー、おもしろい」と感じる 時があるのが良い。他の観客が面白がってて自分が面白くなければ、そこはスルーしてれば良くて、次(おそらく2,3分後)に出てくるヤツはきっと面白いだ ろう、という期待感。自分が面白ければ次ももっと面白いかもしれないという身勝手な期待感。そうやって1時間20分過ぎる。

極めて受身な観方をしてしまっているが、それだけ、僕の理屈っぽさが入り込む余地がないくらい良くできているということで、この人たちには才能が ある、と思う。同じ受身の観方をするのでも、テレビ観てるのより1億倍は面白いし、(失礼な喩えだが)ケラさんの芝居より3倍くらいは面白い。と、僕は思 います。

リトルモア地下を出たら塞いでた気分が吹き飛んでいた、なんてことは全然なくて、鉄割だってそんなことにはそもそも気にかけちゃいないのだが、少なくとも小屋の中にいる間は色んなことを忘れる。楽しかった。

2008年4月28日月曜日

鉄割アルバトロスケット 日常サウンド大根 サラウドン・トラック

27/04/2008 ソワレ

脳味噌に強烈な柔軟体操を喰らった気分。

鉄割の方々に失礼ながら敢えて何かに喩えるなら、キレまくってたころのマカロニほうれん荘のドキドキ感に凄く近い。そのこころは、あまりにもキレ てて、いつか磨り減っちまうんじゃないかと余計な心配をしてしまうからで、そんなことを10年も続けてなお磨り減っていないんだから余計に凄い。

何で面白いのかについてミョーな理屈付けも出来なくはないのだろうけれど、やめる。とにかく、観ていて・聞いていて、面白い。楽しい。

リトルモア地下、やっぱり本当に良いスペースで、客入れ中の客席のざわざわした感じも、何ともいえず気持ち良かった。

今回の日常サウンド大根3連作、残り2つも大変楽しみです。

東京乾電池 コーヒー入門

27/04/2008 マチネ

チラシ、予約の段階では出演者が分からなくて、一体どんな役者陣で望むのか気になっていたが、27日マチネは僕の好きな役者が出ていて、お得な気分。もちろん、他の役者が気に食わないというわけではないが。

現代口語演劇をくぐってきた世代による戯曲ではあるが、どちらかというと別役実不条理劇の匂いが前面に出てくる。谷川の味も出やすく、女優陣の 突っ放したせりふもちょうど良い。でも、そこで、加藤一浩なりのオリジナルな味わいが出てくるかというと、それは、出るには出てるのだけれど、前に見た 「恐怖ハト男」と同様、対話のダイナミズムがぎこちない、というのが「らしさ」になっていて、その分、全体の上演時間が延びている嫌いがあるかも。すごく 「バリ」が出てとげとげしている感じで、もうちょっとこなれても良い気もするけれど、こなれて変なウェルメイドに近づくと却って面白くなくなるのかもしれ ない。

通してみると、「スズナリでやるにはちとさびしい芝居。アゴラ・駅前・OffOffあたりで観たかった」というところ。

日曜日マチネにもかかわらず、空席の目立つスズナリ。客出し時、むちゃくちゃ厳しい顔をした柄本さんが腕組みして客席に座っていたのが印象的だった。これからたくさんダメ出しして稽古して、楽日に向けてどんどん良くなっていくのだろうか。

2008年4月27日日曜日

青年団若手自主企画 おいでおいでぷす

26/04/2008 ソワレ

いやあ、くだらなかったなぁ。
と、観終わって第一声。隣から「ひどい、ひどすぎる」の声が挙がる。
出ていた役者を前に何憚ることなくそんなことを言えてしまう、素晴しい芝居だった。

「口語で古典」というのは、「古典の解釈と表現」という罠にもっともはまりやすいモチーフで、とはいっても、最近だと、三条会のメディア・あな ざーわーくすのエレクトラはその枠を力強く、あるいは軽やかに超えて素晴しかったのだが、さて、岩井秀人、どうでる?というのが興味の1つ。

もう1つは、芝居のフォーカスが常に自らの体験・記憶にぐぐっとフォーカスしていく岩井一人称芝居の中でオイディプスがどのように振舞うんだろうか、という興味だった。

その興味を上回って楽しめる舞台だった。

ハタと手を打つ趣向は勿論楽しくて、特に、役者自身では見えないという字幕との掛け合いはとっても面白かったのだけれど、やはり、最もぐぐっと 持っていかれたのは、松井オイディプスの一人称の芝居に(物語上、当然のこととして)フォーカスが当たっていって、でも、周囲の役者は必ずしもフォーカス をオイディプスに当てていない、という妙なギャップと、そこに置かれた時の(岩井=擬似オイディプス=松井の)自意識の妙な拡散と自己完結の仕方である。

これは、さびしい。オイディプス、さびしい。

この、さびしい主人公の姿こそが岩井芝居の真骨頂で、このさびしさに移入した瞬間、オイディプスも引きこもりのプロレス兄さんも18歳見かけ60 歳の志賀君も、「個」として確立し、観客である僕の個に攻め込んでくる。そうしてそれこそが普遍に通じる(のではないかという妄想が僕の中に芽生える)。

そうして過ごした素晴しい1時間半を、その直後に「あぁ、くだらなかった」といってしまえるなんて、本当に幸せじゃあないか、と、そう思う。

パラドックス定数 HIDE AND SEEK

26/04/2008 マチネ

呉一郎=攻め、夢野久作=受け。
おお、いかんいかん、素人筋がこんなこと不用意に言うと手ひどく火傷する。

とはいうものの、パラドックス定数、相も変わらず男優だけ使って、野木萌葱の掌の中で虚実、いや、受け・攻め入り乱れて、昭和の初めの探偵小説界 の愛憎模様を描くやをい芝居。であるのだから、その筋にえんもゆかりもないあっしとしても、受け・攻め考えざるを得ないのである。

「でも、そのきっちり創られた世界って、芝居である必要はあるのか?」
と言われたことがあって、そこのところは「芝居として」今回確かめたかったポイントではあった。結論は、やっぱり、言われたとおりで、「芝居でなくても良い」んだな。

それでもなお、パラドックス定数の芝居が面白い、また観に行こう、と思ってしまうのは、野木萌葱が舞台に載せるものが、「現実の解釈と表現」「古 典の解釈と表現」というありがちな限界からは明らかに一線を画したところで、「妄想の発露とその拡大」を焦点として組みあがっているからだと思う。

役者の演技を割りとぎちぎちに縛って、自分の世界を作りこんだこの芝居、確かに「身体性」をきっかけにした芝居ならではの「想像力・妄想へのジャンプ」へのリンクは弱い。が、それと違うところで妄想力を発揮できる人にはこたえられないのんと違うかな?

すくなくとも、観客が作品を観る中で、どこかに「自らの妄想を主体的に発火させる」妄想スイッチがオンになる瞬間があれば、創り手の勝ちなのでは ないか、と僕は考えていて、その意味で、この芝居は「勝ち組」といってよろしいのではないかと思う。今回、ラスト10分はちょっと理に落ちて辛かったとは 言うものの。