29/07/2007 マチネ
やられました。
坂手さんが舞台にのせた世界、当日パンフを読めばそのまんまで、
「・・・本物か。・・・偽物か。あるいは、想像上の小説の登場人物が、現実の世界に現れたのか……。現実と虚構、幾層もの世界が葛藤する」
ま、ひどいこと言えばどってことのないシンプルなプロットで、
「いま、作家である女は、『最終回』を書こうとしている」
というのも、まぁ、見えているといえば見えないことも無い。
となると、この芝居の素晴らしさは、この、少しでもやり方を誤ればただの紋切り型に落ちてしまいそうな(好意的な言い方をすればクラシックで骨太な)プロット・モチーフを、素晴らしい芝居に仕立てた作・演出+役者陣、ということになるのだろう。
小説家の妄想と現実、妄想の中の(もしかすると現実のかもしれない)登場人物達の妄想(かも知れない、現実かもしれないもの)と現実(かも知れない、妄想かもしれないもの)、そしてそれ全体をくるむ作者の妄想。
および、「とはいっても、現実としてそこに在る」舞台上の役者達。
それらの織り上げる時空を、唯一つの解釈に導こうとするのではなく、観客に任せてしまう手管は見事。
そして、妄想だろうが現実だろうが関係の無いことよ、と言わんばかりに「ただ舞台に在り」続ける渡辺美佐子さん、素晴らしい。
相変わらずの坂手風台詞回しも、この舞台の上では(クサい言い方だが)自然に捉えられて、2時間経過する頃には、舞台上の渡辺ワールドから下車したくなくなっている。
おセンチなエンディングだとちょっとだけ斜に構えてみせようとしても、芝居の力強さに引き寄せられてぐっと涙が出そうになるのをこらえて客席をで たら、坂手さんがロビーに出てきていて、会釈して二言三言交わそうとしているうちに思わずうわっとこみ上げてきて、それをごまかすようにそそくさと東京芸 術劇場を後にした。
2007年7月29日日曜日
ハイバイ ポンポン
28/07/2007 マチネ
岩井さんの芝居は、毎回、「一人称」チックな視線の動きが楽しみ。それは、ストーリーラインが、主人公ないしそれに準ずる人物の始点に沿って組み立てられていく、という印象で、今まで観たところでいえば、
無外流→お父さん
ヒッキーカンクーントルネード→お兄ちゃん
おねがい放課後→志賀ちゃん
の視点に沿って時間が組み立てられていくので、
・観ていて露骨に感情移入していける。
・でも、舞台を面で観ている感じがしない。
これ、安易な感情移入を許さず、全体のオーケストレーションで勝負する青年団とは対照的だ、と思っていた。
今回も、黒田氏演じる吾郎君の一人称ラインが見事に炸裂。ひょうきん族から死刑執行までの流れには思わず腰が浮いた。
が、実は、品川カンパニーの稽古シーンも、本来は「サービスシーン」かもしれないのにも拘らず、いや、だからこそ、吾郎くんの視線に入らない役者 達が好き放題に暴れまわって、何とも楽しかったのです。強いて言えば、そこは品川氏(orお母さん)の視点にスイッチしたのかもしれないけれど。
色々言ったけれど、楽しく観た。連れも思いっきり楽しんでいた。次回以降の展開も楽しみです。
岩井さんの芝居は、毎回、「一人称」チックな視線の動きが楽しみ。それは、ストーリーラインが、主人公ないしそれに準ずる人物の始点に沿って組み立てられていく、という印象で、今まで観たところでいえば、
無外流→お父さん
ヒッキーカンクーントルネード→お兄ちゃん
おねがい放課後→志賀ちゃん
の視点に沿って時間が組み立てられていくので、
・観ていて露骨に感情移入していける。
・でも、舞台を面で観ている感じがしない。
これ、安易な感情移入を許さず、全体のオーケストレーションで勝負する青年団とは対照的だ、と思っていた。
今回も、黒田氏演じる吾郎君の一人称ラインが見事に炸裂。ひょうきん族から死刑執行までの流れには思わず腰が浮いた。
が、実は、品川カンパニーの稽古シーンも、本来は「サービスシーン」かもしれないのにも拘らず、いや、だからこそ、吾郎くんの視線に入らない役者 達が好き放題に暴れまわって、何とも楽しかったのです。強いて言えば、そこは品川氏(orお母さん)の視点にスイッチしたのかもしれないけれど。
色々言ったけれど、楽しく観た。連れも思いっきり楽しんでいた。次回以降の展開も楽しみです。
2007年7月24日火曜日
2007年7月22日日曜日
パルコ劇場 The Last Laugh
21/07/2007 ソワレ
妻・娘・娘の友人(イギリス人、10日間の日本観光中)・その母・僕、の、5人で観に行った。
The Office や、Hitchhikers Guide の Martin Freeman だし、イギリス人ティーンエイジャーにも楽しんでもらえるかな、と思って、土曜の夜にアレンジしたわけである。
それだから、ハッスルマニアもtsumazuki no ishi も Never Lose も国分寺大人倶楽部も観に行かなかったのである。
だから、もうちょっと真面目にやって欲しかったかな。
マーチン・フリーマンは登場からして「ほらほら、みてみて、おれって、おもしろいでしょ。」なアピールが興醒め。この男、舞台で見るとこんなにタコだったのかい。
ロジャー・ロイド・パックが第二幕ペースを上げて何とかサマになったかと思いきや、ラストにかけておセンチ光線炸裂(これは役者のせいではないが)。前半ダメだと思ったものはやっぱりダメで終わったか、という残念な結果である。
我らがゲストも、第一幕終了後は余りの加速の悪さに呆然としていたが、後半のロジャー・ロイド・パックは楽しめたそうだ。
「ウェスト・エンドで上手くいくかな?」と娘の友人の母に水を向けたら、
「あの2人のリハーサルを前半に持ってこないと、お客が持たないだろう」とのこと。
僕も同感です。
チラシの英語もひどい(絶対にネイティブチェック入れてないね)けれど、舞台も所詮その程度だった。マーチン・フリーマンがパルコ劇場の拍手に騙されて、「日本の客はこんなもんか」と誤解しないことを切に願う。
妻・娘・娘の友人(イギリス人、10日間の日本観光中)・その母・僕、の、5人で観に行った。
The Office や、Hitchhikers Guide の Martin Freeman だし、イギリス人ティーンエイジャーにも楽しんでもらえるかな、と思って、土曜の夜にアレンジしたわけである。
それだから、ハッスルマニアもtsumazuki no ishi も Never Lose も国分寺大人倶楽部も観に行かなかったのである。
だから、もうちょっと真面目にやって欲しかったかな。
マーチン・フリーマンは登場からして「ほらほら、みてみて、おれって、おもしろいでしょ。」なアピールが興醒め。この男、舞台で見るとこんなにタコだったのかい。
ロジャー・ロイド・パックが第二幕ペースを上げて何とかサマになったかと思いきや、ラストにかけておセンチ光線炸裂(これは役者のせいではないが)。前半ダメだと思ったものはやっぱりダメで終わったか、という残念な結果である。
我らがゲストも、第一幕終了後は余りの加速の悪さに呆然としていたが、後半のロジャー・ロイド・パックは楽しめたそうだ。
「ウェスト・エンドで上手くいくかな?」と娘の友人の母に水を向けたら、
「あの2人のリハーサルを前半に持ってこないと、お客が持たないだろう」とのこと。
僕も同感です。
チラシの英語もひどい(絶対にネイティブチェック入れてないね)けれど、舞台も所詮その程度だった。マーチン・フリーマンがパルコ劇場の拍手に騙されて、「日本の客はこんなもんか」と誤解しないことを切に願う。
2007年7月18日水曜日
蜻蛉玉 たいくつな女の日
17/07/2007 ソワレ
前回の蜻蛉玉を見て、印象として残っていたのは、
「島林愛のエゴの出し方は、何ともかわいい」
という、何とも自分の中でも説明つけがたい感想で、今回も、タイトルからして「たいくつな女の日」てなもんだから、島林氏のエゴがどんな風に芝居に反映されるのかが楽しみで、観に行ってしまった。
で、やはり、この芝居に登場する島林の分身たちは、みな、わがままだったり、エゴが前に出てきたり、扱いづらかったり、説明がつかなかったり、そして、何ともかわいかったのである。
この際、「かわいい」という感想が、男性から発せられる場合、
①男から見て御しやすい、という、ある意味ナメた感情
②男から見て「理解しがたい」ものを「かわいい」でごまかそうとする感情
③何でもいいから愛しちゃう感情
等々、色々あるのだろうが、こと、この芝居に関して言うと、(僕なりには)おそらく、
④もっと見たい、しりたい、
ということで、これは即ち、「今度の芝居も観てみたい、そこで、島林のエゴに触れてみたい」ということである。
そこで、「あたしを観て観て、受け入れて」という本谷風のゴリ押しをしないで、1時間10分でプイッと芝居を終わらせてしまうところや、色々なス テージでの人間模様にはわき目も降らずただただ螺旋階段を登り続ける島林の露出、といったおくゆかしさ、が、(僕にとっては)絶妙の引きとなっている。
もちろん、「何が描かれているか」だけで芝居は終わらなくて、舞台への載せ方の巧拙を論じることも必要なのだけれど、で、その意味で、あの、ひた すら登り続ける島林、というコンセプトも面白いのだけれど、今日のところはそういったところを棚上げにしておいて、また次回観に行こうかな、なんて思った りしています。
前回の蜻蛉玉を見て、印象として残っていたのは、
「島林愛のエゴの出し方は、何ともかわいい」
という、何とも自分の中でも説明つけがたい感想で、今回も、タイトルからして「たいくつな女の日」てなもんだから、島林氏のエゴがどんな風に芝居に反映されるのかが楽しみで、観に行ってしまった。
で、やはり、この芝居に登場する島林の分身たちは、みな、わがままだったり、エゴが前に出てきたり、扱いづらかったり、説明がつかなかったり、そして、何ともかわいかったのである。
この際、「かわいい」という感想が、男性から発せられる場合、
①男から見て御しやすい、という、ある意味ナメた感情
②男から見て「理解しがたい」ものを「かわいい」でごまかそうとする感情
③何でもいいから愛しちゃう感情
等々、色々あるのだろうが、こと、この芝居に関して言うと、(僕なりには)おそらく、
④もっと見たい、しりたい、
ということで、これは即ち、「今度の芝居も観てみたい、そこで、島林のエゴに触れてみたい」ということである。
そこで、「あたしを観て観て、受け入れて」という本谷風のゴリ押しをしないで、1時間10分でプイッと芝居を終わらせてしまうところや、色々なス テージでの人間模様にはわき目も降らずただただ螺旋階段を登り続ける島林の露出、といったおくゆかしさ、が、(僕にとっては)絶妙の引きとなっている。
もちろん、「何が描かれているか」だけで芝居は終わらなくて、舞台への載せ方の巧拙を論じることも必要なのだけれど、で、その意味で、あの、ひた すら登り続ける島林、というコンセプトも面白いのだけれど、今日のところはそういったところを棚上げにしておいて、また次回観に行こうかな、なんて思った りしています。
2007年7月17日火曜日
龍昇企画 こころ
16/07/2007 ソワレ
漱石プロジェクト、去年の夏から観始めて、「行人」「夢十夜」ときて、今回の「こころ(小生初見)」と来たが、これは、正直、苦しかった。
「私」と「友人」が先生とその妻の墓参りに来る、そこでの会話が芝居全体のフレームになっているが、龍さんと吉田さんのその会話が、何とも上手く いかない。説明台詞というよりもむしろ、「ナレーター台詞」というべきか、「現代国語読解台詞」とでも言おうか、「こころ」を読み解くプロセスをそのまま 台詞にされても、聴く方は戸惑うばかりである。
直井氏演じる先生が、漱石の書いた台詞をそのまま使いつつも芝居ならではの色気と現代性を醸し出しているのといかにも対照的で、勿体無い。
女優2人と青年役2人が(おそらく狙いとして)紋切り型であるのをベテラン男優がしっかと受け止めて味付けし、観客に届けているとの印象。全体のフレームに、多少は破れがあっても遊びを持たせておけば、もっと幅のある舞台になったのではないかと考えた次第です。
漱石プロジェクト、去年の夏から観始めて、「行人」「夢十夜」ときて、今回の「こころ(小生初見)」と来たが、これは、正直、苦しかった。
「私」と「友人」が先生とその妻の墓参りに来る、そこでの会話が芝居全体のフレームになっているが、龍さんと吉田さんのその会話が、何とも上手く いかない。説明台詞というよりもむしろ、「ナレーター台詞」というべきか、「現代国語読解台詞」とでも言おうか、「こころ」を読み解くプロセスをそのまま 台詞にされても、聴く方は戸惑うばかりである。
直井氏演じる先生が、漱石の書いた台詞をそのまま使いつつも芝居ならではの色気と現代性を醸し出しているのといかにも対照的で、勿体無い。
女優2人と青年役2人が(おそらく狙いとして)紋切り型であるのをベテラン男優がしっかと受け止めて味付けし、観客に届けているとの印象。全体のフレームに、多少は破れがあっても遊びを持たせておけば、もっと幅のある舞台になったのではないかと考えた次第です。
ポツドール 人間<ハート>失格
16/07/2007 マチネ
前回の「激情」を観て「二度と観ない」と書いたにも拘らず再訪。
岩瀬亮とテレビ。これだけで前半40分観ていられて、
「もしかするとこれで最後までもたせたらすごいぞ。ひょっとしてありえるぞ。他の役者は全て「声の出演」だな」
と思ったのだが、
・ それくらいにテレビの使い方が効果的で、①観客の意識を分散させる ②舞台上の時間のペースメーカーとなって、時間を流す役割から役者の意識を引き離してあげられる ということを、他の役者の助けなしで達成していた、その一方で、
・ 実は、舞台に乗っている役者の数が増えても、必ずしもそれまで以上に面白くならなかった落胆、もあった。要は、役者がいなくても、場が成立しちゃってる、という、由々しき状態が生じかねない感じがしたのだ。
暗転10回、シーン数11。10個目のシーンで突如テレビの時間が逆行して、シーン6の番組オンエアー、もしダメ人間街道をまっしぐらに突っ走っていたらこうなっていた、「こうなるはずだった」シーンをみせて、一日が終わる、という仕掛け。
「のびたの夢オチ」
だ、と割り切って劇場を出たが、
ひょっとすると、これは、突っ走るのが現実で、中途半端な生活が続いていくというのは、実は、落ちて落ちて落ちまくったヤツが刹那かいま見る夢なのではないか、と。
そういう解釈も許されるなら、そうしたい。
(でも、そういう解釈を許さないような元カノの台詞が一つあったようななかったような...)
主人公の単線ストーリーで1時間50分は苦しいか。岩瀬+テレビで1時間20分くらい持たせると、もしかするととんでもないものになっていたかもしれない気はする(いや、テレビを使う手管なんて、もうどっかで使い古されているのかもしれないけれど...)。
あ、ちなみに、この芝居には娘は連れてってません。念のため。
前回の「激情」を観て「二度と観ない」と書いたにも拘らず再訪。
岩瀬亮とテレビ。これだけで前半40分観ていられて、
「もしかするとこれで最後までもたせたらすごいぞ。ひょっとしてありえるぞ。他の役者は全て「声の出演」だな」
と思ったのだが、
・ それくらいにテレビの使い方が効果的で、①観客の意識を分散させる ②舞台上の時間のペースメーカーとなって、時間を流す役割から役者の意識を引き離してあげられる ということを、他の役者の助けなしで達成していた、その一方で、
・ 実は、舞台に乗っている役者の数が増えても、必ずしもそれまで以上に面白くならなかった落胆、もあった。要は、役者がいなくても、場が成立しちゃってる、という、由々しき状態が生じかねない感じがしたのだ。
暗転10回、シーン数11。10個目のシーンで突如テレビの時間が逆行して、シーン6の番組オンエアー、もしダメ人間街道をまっしぐらに突っ走っていたらこうなっていた、「こうなるはずだった」シーンをみせて、一日が終わる、という仕掛け。
「のびたの夢オチ」
だ、と割り切って劇場を出たが、
ひょっとすると、これは、突っ走るのが現実で、中途半端な生活が続いていくというのは、実は、落ちて落ちて落ちまくったヤツが刹那かいま見る夢なのではないか、と。
そういう解釈も許されるなら、そうしたい。
(でも、そういう解釈を許さないような元カノの台詞が一つあったようななかったような...)
主人公の単線ストーリーで1時間50分は苦しいか。岩瀬+テレビで1時間20分くらい持たせると、もしかするととんでもないものになっていたかもしれない気はする(いや、テレビを使う手管なんて、もうどっかで使い古されているのかもしれないけれど...)。
あ、ちなみに、この芝居には娘は連れてってません。念のため。
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