16/05/2010 ソワレ
初めて組、初日。
ヒッキーは本当に大好きな戯曲。2007年3月に初めて拝見したときに「これからハイバイを観続ける」と思ったくらいに好きな作品で、今回も是非「初めて組」「経験者組」とも観なくては、と決めている。
で、まずは初めて組。良し。篠崎大悟の登美男、ちょっと線の細げな感じが岩井登美男と違ったカラーの味わい。吉田亮の母、平原母と優劣付けがたいが、いつものハイバイお母さんカツラなはずなのにおでこが広く見えるのは、吉田氏は「頭が大きい」からなのだろうか?近藤フクのお兄さんは、外見「え?」から始めて、ぐぐぐぐ押してくる感じ。
チャン・リーメイの出張お姉さんはこれまで観たバージョンのお姉さんに比べて(ダンガリーのシャツにジーンズという衣装もあって)サブカル臭さが前に出る、ちょっと変な味わい。浅野綾は前半「声出てないかな?」と思ったものの、関係性の糸が最後まで切れずこれも良し。
この芝居、何度観ても絶対に飽きない。役者が変わるから飽きないのではない。何度観ても、いくらでも発見があり、自分の観ている状態によって(微妙な)振れ幅がある。そういう見方を許してくれる。変な言い方だけど「軽井沢、良いところらしいのよ」のシーン、何度観ても、泣く。悲しくなったり、笑ったり、自分のことに照らしてみたり、森田家のことを思ったり、とにかく泣く。ラストにかけても、登美男の中にとびこもって、最後までうじうじして、みちのくプロレス観に行くかどうか、自分が本当に迷ってしまう。
泣きたいからじゃないけど、何度も観たい。いろんな役者で、いろんな場所で、いろんな振れ幅で観てみたい。そういう芝居。
2010年5月23日日曜日
チェルフィッチュ ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶 再見
16/05/2010 マチネ
大変素直に、喜んで、楽しんだ。やはり繊細で愉快で力強い作品だった。
一定の動きが「わたし、これからしゃべります」のキューみたいな仕草に見えたり、キメポーズが出てきたり、話の筋がどうもループしているなーと思われる感じが、どうも、ブルースセッションの「もう一周!」のように感じられたり、そういうところで、やはり「演劇よりもダンスに近いですね」といわれると頷いてしまう。
「お別れの挨拶」のフリージャズは、小生浅学なりに「なんだか60年代フリージャズ風に、音場まで合わせて作りこんでるなー。ひょっとしてリズムセクションだけは過去のトラックから引っ張ってきてるのかなー。台詞に合わせてここまで頼める相手って、日本じゃかなり限られていると思うけど。」などと思っていた。当パンのインタビュー読んどけばよかった。コルトレーンですか。すいませんでした。音楽に合わせてたんですね。
そしてなんといってもこの「何にも言っていない」感じが素晴しい。じゃあ、全体の雰囲気やシチュエーション、かすかに匂わされる物語が何かを語っているかといえば、それも、無い。それも素晴しい。たまたま非正規社員が解雇されるシチュエーションを選んでいるけれど、そこには「非正規何とかしろ」とか「正規が下らないことばかり話して」という葛藤も一切無い。それも素晴しい。この、本当に、何も語っていないことが、素晴しい。
もし作・演出・パフォーマーが「台詞・振付・音楽」等々で何かを語っている「つもり」であったら申し訳ないけれど、それは「少なくとも僕には」一切伝わっていない。そこが素晴しい。
舞台に何かが載ること。そこで起きることに、100人なり200人なりの人間が飽きずに集中して1時間強見入ること。そのことの力強い政治性。これまで観た岡田利規作品の中で、これほど力強く政治的であった作品は無いと思う。チェルフィッチュ、斜に構えて観なくても良いんだと納得した。
大変素直に、喜んで、楽しんだ。やはり繊細で愉快で力強い作品だった。
一定の動きが「わたし、これからしゃべります」のキューみたいな仕草に見えたり、キメポーズが出てきたり、話の筋がどうもループしているなーと思われる感じが、どうも、ブルースセッションの「もう一周!」のように感じられたり、そういうところで、やはり「演劇よりもダンスに近いですね」といわれると頷いてしまう。
「お別れの挨拶」のフリージャズは、小生浅学なりに「なんだか60年代フリージャズ風に、音場まで合わせて作りこんでるなー。ひょっとしてリズムセクションだけは過去のトラックから引っ張ってきてるのかなー。台詞に合わせてここまで頼める相手って、日本じゃかなり限られていると思うけど。」などと思っていた。当パンのインタビュー読んどけばよかった。コルトレーンですか。すいませんでした。音楽に合わせてたんですね。
そしてなんといってもこの「何にも言っていない」感じが素晴しい。じゃあ、全体の雰囲気やシチュエーション、かすかに匂わされる物語が何かを語っているかといえば、それも、無い。それも素晴しい。たまたま非正規社員が解雇されるシチュエーションを選んでいるけれど、そこには「非正規何とかしろ」とか「正規が下らないことばかり話して」という葛藤も一切無い。それも素晴しい。この、本当に、何も語っていないことが、素晴しい。
もし作・演出・パフォーマーが「台詞・振付・音楽」等々で何かを語っている「つもり」であったら申し訳ないけれど、それは「少なくとも僕には」一切伝わっていない。そこが素晴しい。
舞台に何かが載ること。そこで起きることに、100人なり200人なりの人間が飽きずに集中して1時間強見入ること。そのことの力強い政治性。これまで観た岡田利規作品の中で、これほど力強く政治的であった作品は無いと思う。チェルフィッチュ、斜に構えて観なくても良いんだと納得した。
2010年5月22日土曜日
三条会 失われたときを求めて 第一のコース「スワン家の方へ」
15/05/2010 マチネ
小生浅学にして未だプルーストを一頁も読むに及ばず、「失われた時を求めて」と聞けどもただマドレーヌと紅茶のびちゃびちゃを思い浮かべるのみ。そんなおいらが千葉三条会アトリエまで足を運んでどうよ、という思いはあるが、エイっととりあえず行ってみる。だって三条会だもの。行ってみてどうだったか。
やっぱりプルーストのことは分かりません。でしたし。分かったつもり。にも、なりませんでした。が、面白かった。
ドクター、看護師や占い師と患者。「ヒッキー思い出療法」というべきか、いや、プルーストってそういう人だったんだよね、多分。思い出に浸るヒッキー、ていうか。
という勝手な思い込みのようなものを創り手と観客で共有できるような出来ないような。
「コンブレー」という縁もゆかりもない土地の、おそらくプルースト自身もかなり妄想で作っていてそれをまた三条会の妄想でインフレートした物語が舞台に載って、それは全く観客にはコンテクストの取り掛かりもない話で、あしたのジョーっていったってそれは全共闘の愛読書だからやっぱり僕ら同時代じゃないよね、そういう、
「全く関係のないお話に、これからお付き合いいただくんです。しかも長いです。」
そういうご案内を頂いた、そういう感じ。
おそらく続きも観に伺うと思うが、じゃあこれ一回きりのつもりで来た人は?といわれると少しきついかも。第2のコース以降が、どれくらい「独立に立っていられるもの」になるかが楽しみ、あるいは、気にかかる。
小生浅学にして未だプルーストを一頁も読むに及ばず、「失われた時を求めて」と聞けどもただマドレーヌと紅茶のびちゃびちゃを思い浮かべるのみ。そんなおいらが千葉三条会アトリエまで足を運んでどうよ、という思いはあるが、エイっととりあえず行ってみる。だって三条会だもの。行ってみてどうだったか。
やっぱりプルーストのことは分かりません。でしたし。分かったつもり。にも、なりませんでした。が、面白かった。
ドクター、看護師や占い師と患者。「ヒッキー思い出療法」というべきか、いや、プルーストってそういう人だったんだよね、多分。思い出に浸るヒッキー、ていうか。
という勝手な思い込みのようなものを創り手と観客で共有できるような出来ないような。
「コンブレー」という縁もゆかりもない土地の、おそらくプルースト自身もかなり妄想で作っていてそれをまた三条会の妄想でインフレートした物語が舞台に載って、それは全く観客にはコンテクストの取り掛かりもない話で、あしたのジョーっていったってそれは全共闘の愛読書だからやっぱり僕ら同時代じゃないよね、そういう、
「全く関係のないお話に、これからお付き合いいただくんです。しかも長いです。」
そういうご案内を頂いた、そういう感じ。
おそらく続きも観に伺うと思うが、じゃあこれ一回きりのつもりで来た人は?といわれると少しきついかも。第2のコース以降が、どれくらい「独立に立っていられるもの」になるかが楽しみ、あるいは、気にかかる。
木ノ下歌舞伎 勧進帳
14/05/2010 ソワレ
演劇ってこんなにポジティブに楽しいんだぜ、っていう気合と自信と快感に満ちた公演。
歌舞伎の定番「勧進帳」を現代の身体で演じるという、ちょっと聞くと小難しいインテリ芝居になるか「いぇいいぇいカブいたれ」なアイディア先行のお祭りエンターテイメントになるかしそうな試みを、どちらにも落ちずに軽々と跳び超えてみせた。
そもそも杉原邦生の演出する舞台にはストイシズムなどという言葉はまるっきり当てはまらなくて、つまりは、屁難しいこと考えてるヒマがあったら観てておもしろいことを思いつけよ、というスタンスが明確なのだけれど、それに加えて今回つくづく思い知った木ノ下裕一の超ポジティブ歌舞伎LOVE。この2人が力を合わせてえぇーいっ、とここまで行った。
稽古期間中、DVDを観て「勧進帳完コピ」の荒業をやってのけたのには、「あくまでも役者はハードウェア」という(演出家としての冷静な目線に立脚した)命題が背景にあると思われる。ハードウェアとして型をなぞる上においては、「伝統を背負って稽古を積んだ現代の歌舞伎役者」も「伝統を背負わずに自分の身体性だけを拠り所とする現代の役者」も、「過去に過去の役者によって上演されていたであろう演技」との間に何らかの距離を感じているに違いない点では(乱暴な言い方ではあるが)等価である。そこでもって「今ここにあるカラダ」と「ウン百年前に想定されていたと想像されるカラダ」との間をウロウロして楽しむことに対する勝算。その見立て。
そういう、観客がウロウロできる「遊び」をぽいっと目の前に提示してくれるのが杉原邦生の演出の一番楽しいところ。
「ハードウェア」としての役者陣、そこら辺の意識がよーく共有されているのか、誰をとっても出色の出来。上演中どこを観ていても飽きない仕掛けで、大いに楽しんだ。これ、横浜だけじゃもったいないよ。中学・高校の古典の授業でこれみせたら、きっとぐわーーっと世界と視界が広がること間違い無しだと思うんだけどな。
演劇ってこんなにポジティブに楽しいんだぜ、っていう気合と自信と快感に満ちた公演。
歌舞伎の定番「勧進帳」を現代の身体で演じるという、ちょっと聞くと小難しいインテリ芝居になるか「いぇいいぇいカブいたれ」なアイディア先行のお祭りエンターテイメントになるかしそうな試みを、どちらにも落ちずに軽々と跳び超えてみせた。
そもそも杉原邦生の演出する舞台にはストイシズムなどという言葉はまるっきり当てはまらなくて、つまりは、屁難しいこと考えてるヒマがあったら観てておもしろいことを思いつけよ、というスタンスが明確なのだけれど、それに加えて今回つくづく思い知った木ノ下裕一の超ポジティブ歌舞伎LOVE。この2人が力を合わせてえぇーいっ、とここまで行った。
稽古期間中、DVDを観て「勧進帳完コピ」の荒業をやってのけたのには、「あくまでも役者はハードウェア」という(演出家としての冷静な目線に立脚した)命題が背景にあると思われる。ハードウェアとして型をなぞる上においては、「伝統を背負って稽古を積んだ現代の歌舞伎役者」も「伝統を背負わずに自分の身体性だけを拠り所とする現代の役者」も、「過去に過去の役者によって上演されていたであろう演技」との間に何らかの距離を感じているに違いない点では(乱暴な言い方ではあるが)等価である。そこでもって「今ここにあるカラダ」と「ウン百年前に想定されていたと想像されるカラダ」との間をウロウロして楽しむことに対する勝算。その見立て。
そういう、観客がウロウロできる「遊び」をぽいっと目の前に提示してくれるのが杉原邦生の演出の一番楽しいところ。
「ハードウェア」としての役者陣、そこら辺の意識がよーく共有されているのか、誰をとっても出色の出来。上演中どこを観ていても飽きない仕掛けで、大いに楽しんだ。これ、横浜だけじゃもったいないよ。中学・高校の古典の授業でこれみせたら、きっとぐわーーっと世界と視界が広がること間違い無しだと思うんだけどな。
2010年5月18日火曜日
青年団 革命日記再見
12/05/2010 ソワレ
今回の青年団、評判もよければ動員もよいようだ。役者もますますこなれて良い感じ。なので、終演後知人の方と話した、「革命日記は何のパロディか」に絞って書きます。
(1)そもそも1970年代新左翼チックなことを、下手すると1980年代後半に生まれた役者が演じること。そのズレ。
「あのころのことを知らない若い作者・演出家・役者じゃ、このテーマの演劇は無理だね」
(2)もはや現代日本では成立しない「革命」について、2010年に語ること。そのズレ。
「何で今革命についての芝居を上演する必要があるの?時代の要請と乖離してるよね」
(3)リアルに革命やテロを考えている人が、今、まさに、2010年5月の東京に、いるかもしれない、ということ。その「現実の」革命家たちとのズレ。
「俺、ほんまもんの新左翼の奴に友達いるけどさー、こんなことしてないよ、実際。なんか、リアルじゃなくて、醒めちゃうんだよねー」
あ、もう一つ思い出した。少なくとも1980年代中盤には「革命」についてまじめに、でも、僕から見ると100%パロディとして、語っている連中がいた。本当にいました。実名挙げろといわれれば、挙げられますよ。挙げないけど。
だから、この芝居には、「リアルとフィクション」「1970年代と2010年代」「同時代を知っている人と知らない人」という3つの次元でのズレがあると同時に、「観客の経験と創り手の経験」という次元も加えて、4重のパロディとなっている。そのように僕には思われる。
それについて平田が自覚的に芝居を組み立てていて、役者が自覚的に演技している限り、この芝居は「フィクション」として有効に作用するだろう。「リアルにすぎる」という批判も「リアルでない」という批判も、どちらに対しても十分に対処しうる強度を備えているということになるだろう。多くの人がこの芝居を観て「滑稽だ」と感じるだろうけれど、その滑稽さは必ずしも一様ではないだろう。「リアルだ」とも「リアルでない」とも感じるだろう。少なくとも2の4乗、16通りのズレ、パロディ。でも実際はもっと沢山。その辺りがこの「革命日記」の豊穣さ。
今回の青年団、評判もよければ動員もよいようだ。役者もますますこなれて良い感じ。なので、終演後知人の方と話した、「革命日記は何のパロディか」に絞って書きます。
(1)そもそも1970年代新左翼チックなことを、下手すると1980年代後半に生まれた役者が演じること。そのズレ。
「あのころのことを知らない若い作者・演出家・役者じゃ、このテーマの演劇は無理だね」
(2)もはや現代日本では成立しない「革命」について、2010年に語ること。そのズレ。
「何で今革命についての芝居を上演する必要があるの?時代の要請と乖離してるよね」
(3)リアルに革命やテロを考えている人が、今、まさに、2010年5月の東京に、いるかもしれない、ということ。その「現実の」革命家たちとのズレ。
「俺、ほんまもんの新左翼の奴に友達いるけどさー、こんなことしてないよ、実際。なんか、リアルじゃなくて、醒めちゃうんだよねー」
あ、もう一つ思い出した。少なくとも1980年代中盤には「革命」についてまじめに、でも、僕から見ると100%パロディとして、語っている連中がいた。本当にいました。実名挙げろといわれれば、挙げられますよ。挙げないけど。
だから、この芝居には、「リアルとフィクション」「1970年代と2010年代」「同時代を知っている人と知らない人」という3つの次元でのズレがあると同時に、「観客の経験と創り手の経験」という次元も加えて、4重のパロディとなっている。そのように僕には思われる。
それについて平田が自覚的に芝居を組み立てていて、役者が自覚的に演技している限り、この芝居は「フィクション」として有効に作用するだろう。「リアルにすぎる」という批判も「リアルでない」という批判も、どちらに対しても十分に対処しうる強度を備えているということになるだろう。多くの人がこの芝居を観て「滑稽だ」と感じるだろうけれど、その滑稽さは必ずしも一様ではないだろう。「リアルだ」とも「リアルでない」とも感じるだろう。少なくとも2の4乗、16通りのズレ、パロディ。でも実際はもっと沢山。その辺りがこの「革命日記」の豊穣さ。
チェルフィッチュ ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶
09/05/2010 ソワレ
ひょっとするとこれはとっても繊細かつ愉快なパフォーマンスなのではないだろうか。
が、それを上回る勢いで、僕は繊細で神経質で心の狭い観客である。
客席の隣の方が当パンを(ひどい場合にはチラシを)読み始めたり独り言を呟いたりヒソヒソ声でおしゃべりしたりメモを取ったり身体を揺らしてパイプ椅子が絶え間なくカタカタ鳴ったり、後ろの方の靴が僕の座っている椅子に当たったり僕の背中に当たったり、最前列の客が携帯電話の電源入れて煌々とライトが照ったり、
そういうことがあると、途端に舞台に集中できなくなってしまう。
まあ、いつぞや見かけた、最前列でタバコを吸って途中で立ち上がって通路で反吐戻していたオバちゃんについては、流石に舞台と客席の一体感が高まったかもしれないとは思ったけれど。
今回は、それが全部あるいは複数あったわけではないけれど、まぁ、終演後頭を抱えたら顔の表面温度が3、4度低くなっていて、自分が顔面蒼白になっているのが分かった。そればっかり考えてしまう自分の狭量さが、パフォーマーやパートナーに対して申し訳ない。本当に申し訳ないけれど、こればっかりは本当にどうしようもない。
もう一度観なければ。帰宅後すぐに予約を入れた。
ひょっとするとこれはとっても繊細かつ愉快なパフォーマンスなのではないだろうか。
が、それを上回る勢いで、僕は繊細で神経質で心の狭い観客である。
客席の隣の方が当パンを(ひどい場合にはチラシを)読み始めたり独り言を呟いたりヒソヒソ声でおしゃべりしたりメモを取ったり身体を揺らしてパイプ椅子が絶え間なくカタカタ鳴ったり、後ろの方の靴が僕の座っている椅子に当たったり僕の背中に当たったり、最前列の客が携帯電話の電源入れて煌々とライトが照ったり、
そういうことがあると、途端に舞台に集中できなくなってしまう。
まあ、いつぞや見かけた、最前列でタバコを吸って途中で立ち上がって通路で反吐戻していたオバちゃんについては、流石に舞台と客席の一体感が高まったかもしれないとは思ったけれど。
今回は、それが全部あるいは複数あったわけではないけれど、まぁ、終演後頭を抱えたら顔の表面温度が3、4度低くなっていて、自分が顔面蒼白になっているのが分かった。そればっかり考えてしまう自分の狭量さが、パフォーマーやパートナーに対して申し訳ない。本当に申し訳ないけれど、こればっかりは本当にどうしようもない。
もう一度観なければ。帰宅後すぐに予約を入れた。
2010年5月17日月曜日
タカハ劇団 パラデソ
09/05/2010 マチネ
新興カルト教団の卒業生たちが友人の通夜に集まって昔話。そこで繰り広げられる会話の中から、「(能力を)持つ者」と「持たざる者」、「モテる者」と「モテない者」の葛藤があぶりだされる趣向。
カルトものでありながら「組織」や「教祖」を登場させず、あるいはその存在を背後に感じさせることもせず、「同世代お友達トーク」にスコープを押さえ込んだことで、ありきたりの「組織に圧せられる自我」みたいな構図に陥ることは避けられている。が、一方で、「そういうことなら何もカルト教団の話にしなくても良くないかい?」となってしまいそうなのが微妙なところ。
観客から見たとっつきやすさのハードルは務めて低く設定してあって、それと合わせて考えるとカルト教団ネタも所詮はネタか。でも、これだけ丁寧に戯曲が書けて、達者な役者も集まってくるんだから、もう少し高いところに芝居自体のターゲットを置いても全然大丈夫だったんじゃないかなー、と思ったりした。
新興カルト教団の卒業生たちが友人の通夜に集まって昔話。そこで繰り広げられる会話の中から、「(能力を)持つ者」と「持たざる者」、「モテる者」と「モテない者」の葛藤があぶりだされる趣向。
カルトものでありながら「組織」や「教祖」を登場させず、あるいはその存在を背後に感じさせることもせず、「同世代お友達トーク」にスコープを押さえ込んだことで、ありきたりの「組織に圧せられる自我」みたいな構図に陥ることは避けられている。が、一方で、「そういうことなら何もカルト教団の話にしなくても良くないかい?」となってしまいそうなのが微妙なところ。
観客から見たとっつきやすさのハードルは務めて低く設定してあって、それと合わせて考えるとカルト教団ネタも所詮はネタか。でも、これだけ丁寧に戯曲が書けて、達者な役者も集まってくるんだから、もう少し高いところに芝居自体のターゲットを置いても全然大丈夫だったんじゃないかなー、と思ったりした。
登録:
投稿 (Atom)