29/01/2010 ソワレ
久し振りにお邪魔したゴールデン街の月末劇場、今回は角替和枝さんに田根楽子さん、吉橋航也さんを加えて、竹内銃一郎作「眠レ、巴里」。
なぜか観客として集中できず。こういう微妙な芝居はきちんとした状態で観ないと、演技者から「こっちこっち」という媚を売ってくれないから、物語のプロットにばかり引っ張られて難しくなってしまう。もったいない。また、役者には申し訳ない観客になってしまった・・・
角替・田根姉妹という妙齢シスターズの組合せも、妙にリアルさが勝ってしまって、つらい。このリアルさがよい、という方ももちろん居ると思うが、結構、笑えない。もっと年齢の行かない姉妹なら「バカだなー」で済ませられる部分もあって救いになるのだが。そういう、何だか芝居と関係ない「少子高齢化」とか「高齢層の貧困化」とか「ソーシャルインクルージョン」とか、そんなことばかり考えてしまったのだ。
あぁあ、何でそんな精神状態だったのだろう。劇場に居る時くらい、もっと役者の動きだけに集中していれば良いのに。本当にもったいない。
2010年1月31日日曜日
2010年1月27日水曜日
ワイルダーで、ままごと
25/01/2010 ソワレ
柴幸男氏が「他人とは思えない」と呼ぶソーントン・ワイルダーの "Long Christmas Dinner" のリーディング。1931年に書かれた90年間を描く芝居を、40分で。
始まって驚く、こんな戯曲が80年前に書かれていたとは。かつ、この、平田オリザもビックリ、「なんでもない会話」を使って、かつそういう台詞を思いがけなく再登場させたりして、それがぐっと来る。
柴氏の言う「時間が変な流れ方をする」というのはまさにその通りなのだけれど、実は今の小劇場の観客は「回想シーン」とか「時空を超えて」みたいな「時間の流し方を変にする仕掛け」は80年代以降30年にわたって存分に味わってきていて、むしろ、「暗転多用して時空飛ばして世界を広げるのって、ちょっとかっこ悪くて恥ずかしいことだ」と思い始めて、平田オリザが出てきて、それから、時間が変な流れ方をする芝居が減った。
でも実は平田戯曲は、時間の流れ方のウソのつき方がより巧妙になって、実時間とのズレが指摘しにくくなったということでしかなかったりする。現実と虚構を繋ぐのりしろの処理が上手になった、ということでもある。チェルフィッチュ岡田氏とか、柴氏の「あゆみ」とか「わが星」とかも、今回も、「技術的には」そう。
役者の身体は実時間に正直に動かざるを得ないから、そこはきっかり40分。観客にも、実時間を過ごしてもらいながら、虚構の時間90年も観てもらえる(かもしれないし、ダメかもしれない)。そのギャップに茫然とするのではなく、物語に身を投げてもらうでもなく、それを味わってもらうこと・・・
身体は実時間に正直で、テクストは虚構の時間を流すことに向けてウソをついてくれる、あるいは、ウソの裏打ちをしてくれる、となると、やっぱり役者がどれくらい自分の身体とテクストとの間に距離をとれるか、ということか・・・な?
年明け以降、青年団⇒アゴラWS⇒Castaya⇒快快⇒地点⇒ままごと、と、テクストと身体の距離感についてかなりゴツゴツと表立って考えざるを得ない機会に恵まれている。結論はでないんだけど。
柴幸男氏が「他人とは思えない」と呼ぶソーントン・ワイルダーの "Long Christmas Dinner" のリーディング。1931年に書かれた90年間を描く芝居を、40分で。
始まって驚く、こんな戯曲が80年前に書かれていたとは。かつ、この、平田オリザもビックリ、「なんでもない会話」を使って、かつそういう台詞を思いがけなく再登場させたりして、それがぐっと来る。
柴氏の言う「時間が変な流れ方をする」というのはまさにその通りなのだけれど、実は今の小劇場の観客は「回想シーン」とか「時空を超えて」みたいな「時間の流し方を変にする仕掛け」は80年代以降30年にわたって存分に味わってきていて、むしろ、「暗転多用して時空飛ばして世界を広げるのって、ちょっとかっこ悪くて恥ずかしいことだ」と思い始めて、平田オリザが出てきて、それから、時間が変な流れ方をする芝居が減った。
でも実は平田戯曲は、時間の流れ方のウソのつき方がより巧妙になって、実時間とのズレが指摘しにくくなったということでしかなかったりする。現実と虚構を繋ぐのりしろの処理が上手になった、ということでもある。チェルフィッチュ岡田氏とか、柴氏の「あゆみ」とか「わが星」とかも、今回も、「技術的には」そう。
役者の身体は実時間に正直に動かざるを得ないから、そこはきっかり40分。観客にも、実時間を過ごしてもらいながら、虚構の時間90年も観てもらえる(かもしれないし、ダメかもしれない)。そのギャップに茫然とするのではなく、物語に身を投げてもらうでもなく、それを味わってもらうこと・・・
身体は実時間に正直で、テクストは虚構の時間を流すことに向けてウソをついてくれる、あるいは、ウソの裏打ちをしてくれる、となると、やっぱり役者がどれくらい自分の身体とテクストとの間に距離をとれるか、ということか・・・な?
年明け以降、青年団⇒アゴラWS⇒Castaya⇒快快⇒地点⇒ままごと、と、テクストと身体の距離感についてかなりゴツゴツと表立って考えざるを得ない機会に恵まれている。結論はでないんだけど。
青年団 カガクするココロ+北限の猿二本立て 再見
24/01/2010 マチネ・ソワレ
どうも今回の青年団のプロダクションについては、「ゴツゴツしてないのが不満だ」とか「良くも悪くもすっきりしている」とか、そういう、手触り感に関する感想をよく聞く気がする。
そういう感想の良し悪しや当たり外れは置いておいて良い。何となれば、そういう「手触り感」は、役者の巧拙にも依るし(もちろん、技術的に下手な方が期せずしてゴツゴツ感を醸すことがあるという意味で)、観る側の好みによるところも大きいし、また、世代や時代を映した結果だともいえるから。
でも、放っておいて良いことを何で敢えてここで蒸し返すかといえば、それは、僕もまたこの公演について、
「どうやったらもう少し表面が毛羽立った、ザラついた芝居になるのだろう?」
と思ってしまったからです。「毛羽立ち」というのは、「巧まずして出てしまうものとは異なる、極めて巧妙に生み出される違和感」というくらいの感じである。
それを大きく感じたのは、「カガク」では、河村竜也が村田牧子の狂言自殺を責めるところ、「北限」では、佐山和泉が「あーっ」と声を出すところ。いずれも「すごく上手に組み立てたな」と思ってしまった。
いずれも、それまでどことなく研究室に漂いつつあったイライラが凝固する瞬間だと思うのだが、その「イライラ」の蓄積がちらちらと舞台の表面に蒸留されていく感じがしなかったのだ。だから、「上手に組み立て」ないと成立しないんじゃないか、とも思ったのだ。もちろん、戯曲に書かれた「事象」としては、イライラのタネが蒔かれてはいるのだけれど。
初演時はもっとそういう「イライラ」が、いつ発火してもおかしくないような密度で舞台を覆っていた気がする。演技を組み立てなくとも「巧まざる」瞬間が舞台上にあった気がする。要は「下手だったけど、素でスパークできるくらいの集団に合わせて戯曲が書かれていた」ということかもしれないとも思えてくる。
そう考えると、戯曲そのものが、現代の「よりイライラが表にでにくい」状況を反映して書き換えられても良いくらいのではないか、とさえ言えるのかもしれない。そういえば、初演時、
「でも、なんか、やじゃない?」
っていう、その場にいない人に対してすっごく兇悪な悪意に満ちた台詞がすっと出てくる場面があって忘れられないんだけど、そういう台詞がなくなっちゃった、それと同じレベルで、展開が若干変わっても良かったのかもしれない、とかいうことなのだが。
どうも今回の青年団のプロダクションについては、「ゴツゴツしてないのが不満だ」とか「良くも悪くもすっきりしている」とか、そういう、手触り感に関する感想をよく聞く気がする。
そういう感想の良し悪しや当たり外れは置いておいて良い。何となれば、そういう「手触り感」は、役者の巧拙にも依るし(もちろん、技術的に下手な方が期せずしてゴツゴツ感を醸すことがあるという意味で)、観る側の好みによるところも大きいし、また、世代や時代を映した結果だともいえるから。
でも、放っておいて良いことを何で敢えてここで蒸し返すかといえば、それは、僕もまたこの公演について、
「どうやったらもう少し表面が毛羽立った、ザラついた芝居になるのだろう?」
と思ってしまったからです。「毛羽立ち」というのは、「巧まずして出てしまうものとは異なる、極めて巧妙に生み出される違和感」というくらいの感じである。
それを大きく感じたのは、「カガク」では、河村竜也が村田牧子の狂言自殺を責めるところ、「北限」では、佐山和泉が「あーっ」と声を出すところ。いずれも「すごく上手に組み立てたな」と思ってしまった。
いずれも、それまでどことなく研究室に漂いつつあったイライラが凝固する瞬間だと思うのだが、その「イライラ」の蓄積がちらちらと舞台の表面に蒸留されていく感じがしなかったのだ。だから、「上手に組み立て」ないと成立しないんじゃないか、とも思ったのだ。もちろん、戯曲に書かれた「事象」としては、イライラのタネが蒔かれてはいるのだけれど。
初演時はもっとそういう「イライラ」が、いつ発火してもおかしくないような密度で舞台を覆っていた気がする。演技を組み立てなくとも「巧まざる」瞬間が舞台上にあった気がする。要は「下手だったけど、素でスパークできるくらいの集団に合わせて戯曲が書かれていた」ということかもしれないとも思えてくる。
そう考えると、戯曲そのものが、現代の「よりイライラが表にでにくい」状況を反映して書き換えられても良いくらいのではないか、とさえ言えるのかもしれない。そういえば、初演時、
「でも、なんか、やじゃない?」
っていう、その場にいない人に対してすっごく兇悪な悪意に満ちた台詞がすっと出てくる場面があって忘れられないんだけど、そういう台詞がなくなっちゃった、それと同じレベルで、展開が若干変わっても良かったのかもしれない、とかいうことなのだが。
2010年1月24日日曜日
地点 あたしちゃん、行き先を言って
23/01/2010 ソワレ
昨年、アルテリオで「行程2」を観た時には、三浦氏のアフタートークも何だか自信なさげで、戌井氏のコメントも何だか良く分からなくて、ひょっとしたら「難しすぎ!」を遠まわしに言っているだけかもしれないと思えたりして、今回の吉祥寺シアターに向けて一体どう仕上がるのか、正直不安だった。今日も、夕飯入れてから劇場にお邪魔したので「いざとなれば睡眠に落ちてもやむなし」と思っていたのである。
ところがどっこい、予想に反して(失礼!)1時間40分時計に目をやる暇もなく、もちろん一睡もせずに見通した。とても面白かった。
もちろん、「何だか難しいばかりで、一体何が言いたかったんだか」という人はいるだろう。
「これは演劇なのか?スジも役柄もありゃしない」という声も挙がるだろう。
「太田氏のテクストはどのようにして伝わるとお思いか?」という問いも出るだろう。
「あんなことをして、役者はつらいばかりではないですか?」という人もいるだろう。
その一つ一つに丁寧に答えることは出来ない相談ではなさそうだ。でも、僕自身が、
「何故この芝居を、『なんて面白い芝居なんだ!』と思うんだろう?」
という問いに、なかなか答えられないのだから困りものだ。
テクストが発語される。役者は動く。誤った役柄で。誤っていない役柄で。役者の動きはテクストによりかからず、表情もよりかからず、そこに、「気分」は生まれない。ときど~き発話がテクストに引っ張られる感じがする。ちょっとした気分が生まれる。でも、そうしたちょっとした気分はふわーっとどこかへ消えて、気分はなくなる。身体とテクストが残る。それらはお互いによりかからない。ときど~き弱い引力を感じる。
そういうオーケストレーションを味わっているうちに、100分経った。
あぁ、やっぱり、「何でそういう、息苦しい所作と切れ切れのテクストの固まりを100分間観て、面白いと思ってしまうのか?」という問いには答えられない。もしかすると、息苦しい所作の役者から、エクトプラズムのように吐き出される言葉が、実は太田省吾氏のテクストとなって、ポッ、ポッと劇場内に広がっていく、あるいはボトッと落ちる、そういうさまを、飽きもせずに観ていただけなのかもしれない。台詞を発することは、ウミガメの産卵に似ているのかもしれない。そのこころは、「よくもこんなに歩留まりの悪い、生産効率の悪いことを、飽きもせず1時間も2時間も眺めていられるもんだ」。
昨年、アルテリオで「行程2」を観た時には、三浦氏のアフタートークも何だか自信なさげで、戌井氏のコメントも何だか良く分からなくて、ひょっとしたら「難しすぎ!」を遠まわしに言っているだけかもしれないと思えたりして、今回の吉祥寺シアターに向けて一体どう仕上がるのか、正直不安だった。今日も、夕飯入れてから劇場にお邪魔したので「いざとなれば睡眠に落ちてもやむなし」と思っていたのである。
ところがどっこい、予想に反して(失礼!)1時間40分時計に目をやる暇もなく、もちろん一睡もせずに見通した。とても面白かった。
もちろん、「何だか難しいばかりで、一体何が言いたかったんだか」という人はいるだろう。
「これは演劇なのか?スジも役柄もありゃしない」という声も挙がるだろう。
「太田氏のテクストはどのようにして伝わるとお思いか?」という問いも出るだろう。
「あんなことをして、役者はつらいばかりではないですか?」という人もいるだろう。
その一つ一つに丁寧に答えることは出来ない相談ではなさそうだ。でも、僕自身が、
「何故この芝居を、『なんて面白い芝居なんだ!』と思うんだろう?」
という問いに、なかなか答えられないのだから困りものだ。
テクストが発語される。役者は動く。誤った役柄で。誤っていない役柄で。役者の動きはテクストによりかからず、表情もよりかからず、そこに、「気分」は生まれない。ときど~き発話がテクストに引っ張られる感じがする。ちょっとした気分が生まれる。でも、そうしたちょっとした気分はふわーっとどこかへ消えて、気分はなくなる。身体とテクストが残る。それらはお互いによりかからない。ときど~き弱い引力を感じる。
そういうオーケストレーションを味わっているうちに、100分経った。
あぁ、やっぱり、「何でそういう、息苦しい所作と切れ切れのテクストの固まりを100分間観て、面白いと思ってしまうのか?」という問いには答えられない。もしかすると、息苦しい所作の役者から、エクトプラズムのように吐き出される言葉が、実は太田省吾氏のテクストとなって、ポッ、ポッと劇場内に広がっていく、あるいはボトッと落ちる、そういうさまを、飽きもせずに観ていただけなのかもしれない。台詞を発することは、ウミガメの産卵に似ているのかもしれない。そのこころは、「よくもこんなに歩留まりの悪い、生産効率の悪いことを、飽きもせず1時間も2時間も眺めていられるもんだ」。
東京乾電池 TVロード
23/01/2010 マチネ
2時間の芝居に31人の登場人物。一人当たりの持ち時間はざっくり平均4分。
サッカーは90分の試合に18人の選手。一人当たり平均でボール持つ時間は5分。
まぁ、贔屓の役者がいたとして、その役者が台詞言う時間は4分、ということで、それでは見せ場も何もあるまい。どう面白くなるか、ということでスズナリへ。
やっぱり、31人全員が出揃うまでは、数を数えてしまう。開演して1時間近くたったころ、31人目が出てきたときには、心の中で、「出た!31人目!」と叫ぶ。商業演劇やミュージカルだと役者30人というのは珍しくないのかもしれないが、これ、現代口語演劇ですから。「主役」とか「大部屋俳優」とかいない世界ですから。念のため。
初期の現代口語演劇の、「お互いにリンクのない会話が同時多発で起きて、何があるのかなーと思っていたら、やっぱりリンクのないままだらだらと会話が続く」スタイルに近いと感じた。そういう意味で、過激といえば過激。食い足らないといえば食い足らない。
特に理由も行き先もなく退場してしまって「あぶねー!」と思う登場人物もいて、そこら辺は「恐怖ハト男」みたいで、そこはちょっと楽しいんだけど。
パーツパーツは楽しめるが、「31人」の芝居を、多分若干は無理して頑張って書いて、その分芝居に厚みが出たかといえば、実は「過激ダラダラリンクなし」スタイルもあってそうでもない結果に終わってる感じもする。登場人物が減っても、実はそんなに世界が希薄になったりはしないような気がするんだけどな。どうなんだろう?
2時間の芝居に31人の登場人物。一人当たりの持ち時間はざっくり平均4分。
サッカーは90分の試合に18人の選手。一人当たり平均でボール持つ時間は5分。
まぁ、贔屓の役者がいたとして、その役者が台詞言う時間は4分、ということで、それでは見せ場も何もあるまい。どう面白くなるか、ということでスズナリへ。
やっぱり、31人全員が出揃うまでは、数を数えてしまう。開演して1時間近くたったころ、31人目が出てきたときには、心の中で、「出た!31人目!」と叫ぶ。商業演劇やミュージカルだと役者30人というのは珍しくないのかもしれないが、これ、現代口語演劇ですから。「主役」とか「大部屋俳優」とかいない世界ですから。念のため。
初期の現代口語演劇の、「お互いにリンクのない会話が同時多発で起きて、何があるのかなーと思っていたら、やっぱりリンクのないままだらだらと会話が続く」スタイルに近いと感じた。そういう意味で、過激といえば過激。食い足らないといえば食い足らない。
特に理由も行き先もなく退場してしまって「あぶねー!」と思う登場人物もいて、そこら辺は「恐怖ハト男」みたいで、そこはちょっと楽しいんだけど。
パーツパーツは楽しめるが、「31人」の芝居を、多分若干は無理して頑張って書いて、その分芝居に厚みが出たかといえば、実は「過激ダラダラリンクなし」スタイルもあってそうでもない結果に終わってる感じもする。登場人物が減っても、実はそんなに世界が希薄になったりはしないような気がするんだけどな。どうなんだろう?
快快 インコは黒猫を探す
22/01/2010 ソワレ
インコは可愛い。いや、カンちゃんもキーチも可愛いし、師岡・黒田ペアも可愛い。板橋インコですら、可愛い。可愛かった。
が、この芝居はインコの話ではなくて、3人の若者の青春の話だ。
身も蓋もない言い方だけれど、これは、甘酸っぱい青春の話だ。20台の人々にとっては青春はいつまでも現在形で、3年前も今も、どちらも青春だ。当たり前だ。でも、40をとうに越えた僕にとっては青春は常に過去である。あからさまに過去である。
だから、青春の芝居を観ると、
「あぁ、この人たちにとって青春はいつまで現在形であり続けるのだろうか?」
と、どうしても考えてしまう。
青春が過去になる瞬間は、いつか、必ず来る。それを知ってか知らずか、この舞台は、現在の幅を過去にまでぐぐぅっと広げて、また、体力の輝きとインコの可愛さを梃子に観客席にまで青春な空間を広げて、あたかも現在を無限に広げようとしているようにも見えた。だから、「インコは黒猫を探す」は、青春群像劇であっても、青春のひとコマを切り取ってみせる試みからは対極にある。青春のひとコマを出発点にして、「体力の続く限り」「チャーミングさの賞味期限が切れない限り」青春の千年王国を築き、拡げ続ける試みなのである。
それが、せつない。
篠田演出だったら、このテクストはもう少し「言葉寄り」に上演されていたのではないかと思う。より「身体寄り」な野上演出が良かった。体温がちょっと上がった分、舞台も暖かかった。ポストパフォーマンスダンスも満喫。最初に舞台に上がる数学の話をする人がRafael Benitezにそっくりで、もう、冷静に観ていられない。篠田千明の前説も良し。ちょっぴり大人のバランスを入れて、客入れと上演を繋いでいた。
インコは可愛い。いや、カンちゃんもキーチも可愛いし、師岡・黒田ペアも可愛い。板橋インコですら、可愛い。可愛かった。
が、この芝居はインコの話ではなくて、3人の若者の青春の話だ。
身も蓋もない言い方だけれど、これは、甘酸っぱい青春の話だ。20台の人々にとっては青春はいつまでも現在形で、3年前も今も、どちらも青春だ。当たり前だ。でも、40をとうに越えた僕にとっては青春は常に過去である。あからさまに過去である。
だから、青春の芝居を観ると、
「あぁ、この人たちにとって青春はいつまで現在形であり続けるのだろうか?」
と、どうしても考えてしまう。
青春が過去になる瞬間は、いつか、必ず来る。それを知ってか知らずか、この舞台は、現在の幅を過去にまでぐぐぅっと広げて、また、体力の輝きとインコの可愛さを梃子に観客席にまで青春な空間を広げて、あたかも現在を無限に広げようとしているようにも見えた。だから、「インコは黒猫を探す」は、青春群像劇であっても、青春のひとコマを切り取ってみせる試みからは対極にある。青春のひとコマを出発点にして、「体力の続く限り」「チャーミングさの賞味期限が切れない限り」青春の千年王国を築き、拡げ続ける試みなのである。
それが、せつない。
篠田演出だったら、このテクストはもう少し「言葉寄り」に上演されていたのではないかと思う。より「身体寄り」な野上演出が良かった。体温がちょっと上がった分、舞台も暖かかった。ポストパフォーマンスダンスも満喫。最初に舞台に上がる数学の話をする人がRafael Benitezにそっくりで、もう、冷静に観ていられない。篠田千明の前説も良し。ちょっぴり大人のバランスを入れて、客入れと上演を繋いでいた。
舞台と空間のWS09冬 野村政之「言葉を融かす」
20/01/2010
アゴラ冬のサミットのワークショップ第三回。
「ドラマターグ」野村政之氏が講師。自称ドラマターグの人ってあんまりいない。他称でもあんまりいないけど。
ドラマターグってのは諸条件(作者・演出家・役者・舞台美術家・制作等々)を所与のものとして、その上で無任所の人としてその芝居に関わる人だという前提で。
「所与の」テクストに対する自分の取り掛かり方が、チューニングを変えてみることによってどう変化するかを試すレッスン。
3時間半を越えるワークショップだったにも拘らず、野村氏曰く「やりたかったことの3分の1しか出来なかった」。うむ。確かに。
テクストに対する色んな光の当て方を試してみて、所与のテクストから今まで気付かなかったエッジ、陰影が立ち現われるところまでは(おそらく)到達した。次はそれを現場に晒すことで、どんな化学反応が起きて、何が生まれてくるのか、ということになるのだろう。そこまでは時間が足りなかった。確かに。
僕はかなり興奮した。と思う。どんどんニョロニョロと、周囲お構い無しにいろんなイメージが浮かんできたから。が、それは、
a. 他者のアイディアとどう溶け合うかというのとはまったく別物である
b. 他者から見て面白いイメージかというのとは全く別物である
要自戒。もっと周りを見て。その発見の驚きこそがワークショップの真髄だし、これまでもそうだった。
アゴラ冬のサミットのワークショップ第三回。
「ドラマターグ」野村政之氏が講師。自称ドラマターグの人ってあんまりいない。他称でもあんまりいないけど。
ドラマターグってのは諸条件(作者・演出家・役者・舞台美術家・制作等々)を所与のものとして、その上で無任所の人としてその芝居に関わる人だという前提で。
「所与の」テクストに対する自分の取り掛かり方が、チューニングを変えてみることによってどう変化するかを試すレッスン。
3時間半を越えるワークショップだったにも拘らず、野村氏曰く「やりたかったことの3分の1しか出来なかった」。うむ。確かに。
テクストに対する色んな光の当て方を試してみて、所与のテクストから今まで気付かなかったエッジ、陰影が立ち現われるところまでは(おそらく)到達した。次はそれを現場に晒すことで、どんな化学反応が起きて、何が生まれてくるのか、ということになるのだろう。そこまでは時間が足りなかった。確かに。
僕はかなり興奮した。と思う。どんどんニョロニョロと、周囲お構い無しにいろんなイメージが浮かんできたから。が、それは、
a. 他者のアイディアとどう溶け合うかというのとはまったく別物である
b. 他者から見て面白いイメージかというのとは全く別物である
要自戒。もっと周りを見て。その発見の驚きこそがワークショップの真髄だし、これまでもそうだった。
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