17/01/2010 マチネ
観終わって、ズズゥーーンという、重苦しい、永遠に闇の底に落ちていく夢から醒めたような、そういう気分になった。本当に素晴しい、いつまでも忘れられない、そして、決して芝居の構造も、それを観ていた自分自身の情動も解き明かすことは出来ないだろうと思うような、そういう舞台だった。
平田オリザの「S高原から」は、まぁ、現代口語演劇の代表作の1つである。高原のサナトリウムにいる不治の病の患者達と、それに関わる人々の姿を描いて、人間の生と死について何となく考える、みたいなお話。が、三条会の舞台は教室にスチール机7つ。脚立が多数。
「あぁ、俳優演じるところの学生たちが演じるS高原からの劇中劇、という趣向ですか?」
・・・違う。「劇中劇」のキーワードを使って舞台上の出来事を回収しようとしても、途中で破綻してしまう。かと思うと、看護師が鎌を振り回して、
「あぁ、そうか。内部の人と外部の人、その関係性が断たれる時に、どっちが生きててどっちが死んでるというのには関係なく、飽くまでも相対的に、一方は死ぬのだ、ということですね?」
・・・違う。みんな何だか生き返って仲良くしてるし。机重ねて上から飛び降りてるし。へぇンな個とバでぇ、セりふ言テるぅし。机の上で寄り添うし。男と女が寄り添うし。男と男が寄り添うし。出初式も見れるし。脈絡なく踊るし。
・・・舞台上の事象を物語のパターンに回収して自らの既成概念を守ろうとする自分の態度が、とてつもなく恥ずかしくなってしまったのだ。
平田オリザの「現代口語演劇」が、「どんなお話なの?どんなご教訓なの?」という問いに答えることを拒絶して、ハイパーリアルな会話の積み重ねと一件意味のなさげな所作とを組合せて、観客が好き勝手なことを想像する余地を与えながらも、その向こう側にインプライされる一つの世界については「確かにある」と思わせるよう心を砕いていたとすると、三条会は、そもそもその向こう側にあったはずの世界すらぶち壊していく異形の舞台を創り出す。
舞台上の色んな妄想のタネが、戯曲のコンテクストに囚われることなく噴出して、そこから妄想世界を組み上げる(繰り広げる)作業は観客に任される。少なくとも僕は、「任された」「渡された」と感じた。そこには、作者・演出家の中で完結した妄想の世界を「提示する」というそぶりは全く感じられず、観客としては、渡された妄想のタネをどうやって組み上げたところで、予定されていたと思われる形には決して出来上がらないのだ。いや、そもそもそんな形ははなから無いのだろう。それは無常の喜びでもあり、不安でもある。
こうやって、観客は、積み重なる妄想の不安定な楼閣の上に立って、高所恐怖症のめまいを感じるのだ。
僕は最後は大丈夫。「S高原から」は初演以来繰り返し何度も色んなバージョンで観てきたので、「あぁ、戯曲の言葉自体はいじらないで進行するんだな」と思えた時点で、自分の妄想力に一定のタガを嵌めて、ある意味自分を安心させることもできたから。全体の何割まで来たか、これから話が(少なくともテクストの上で)どう展開するのかが見通せたから。
が、これが、「S高原」について全く知見の無い観客だったらどうだったか?それはきっと、「いつ終点に着くのかさっぱり分からない、闇の中を走るジェットコースター」に乗ってるような恐怖感を覚えたのではないだろうか。それはそれで、とっても羨ましい体験なのではないか、と思っちゃったりもするのだ。
2010年1月18日月曜日
冨士山アネット EKKKYO-!
15/01/2010 ソワレ
2時間があっというまに過ぎて、とっても幸せ。
ライン京急・ままごと・Castaya氏・モモンガコンプレックス・岡崎藝術座・冨士山アネット、いずれも譲らず持ち味を出して、かつ、出し物の並びもよし。満喫満喫。
ライン京急が楽しく観れたのは先ず大きな収穫。これまでも何度か拝見していたけど、「超絶技巧がすげー」というのが先行してちょっと観ていて窮屈だったのだ。今回は、ゲストの端田新菜のせいだけでなく、なんか、観ててぐぐーっと来た。楽しかった。
Enrique Castaya氏の演劇も素晴しかった。字幕が折り返しに入った瞬間、何秒かの間、字幕の字がふわっと浮き上がって剥がれ落ち、舞台と客席と自分が一つの視界に入って、
「あー、これは演劇だ」
と思った。そこに持っていくまでのプロセスと、そこから先、折り返しがよりあからさまになってパフォーマンスを畳むところは、それらはみーんな、あの、折り返しのときの何秒かの間のためにだけ設けられた必要悪な時間だとまでも感じられた。
リターンズ組のお三方(と一括りにする態度はとても良くないですが)も、もちろん面白かったし。あゆみはまた新たな方向に歩みだしているし、岡崎藝術座はどう考えてもわざと甘い球見逃して「場外ホームラン打てる球」に手を出して、これが結構飛距離出てたし。モモンガ・コンプレックスは20~30分の枠内で一番力が出るんだということも感じた。2月の本公演、どうなる?
家主・興行主の冨士山アネットも、他の5つのイロモノに対して、変に斜に構えず正攻法で対峙して吉とでた。妙な意識の仕方したら、本当に軒を貸して母屋を取られるところだった。
こういう企画を東京芸術劇場でやる、というのも良し。同じ企画をアゴラとか王子でやったら、「まぁ、アゴラ(王子)ってのはそういう場所だから」という風に取られて、期待したざらつきが得られなかった可能性もあるかなーと思う。そういうのも含めて、気持ちよかった。
2時間があっというまに過ぎて、とっても幸せ。
ライン京急・ままごと・Castaya氏・モモンガコンプレックス・岡崎藝術座・冨士山アネット、いずれも譲らず持ち味を出して、かつ、出し物の並びもよし。満喫満喫。
ライン京急が楽しく観れたのは先ず大きな収穫。これまでも何度か拝見していたけど、「超絶技巧がすげー」というのが先行してちょっと観ていて窮屈だったのだ。今回は、ゲストの端田新菜のせいだけでなく、なんか、観ててぐぐーっと来た。楽しかった。
Enrique Castaya氏の演劇も素晴しかった。字幕が折り返しに入った瞬間、何秒かの間、字幕の字がふわっと浮き上がって剥がれ落ち、舞台と客席と自分が一つの視界に入って、
「あー、これは演劇だ」
と思った。そこに持っていくまでのプロセスと、そこから先、折り返しがよりあからさまになってパフォーマンスを畳むところは、それらはみーんな、あの、折り返しのときの何秒かの間のためにだけ設けられた必要悪な時間だとまでも感じられた。
リターンズ組のお三方(と一括りにする態度はとても良くないですが)も、もちろん面白かったし。あゆみはまた新たな方向に歩みだしているし、岡崎藝術座はどう考えてもわざと甘い球見逃して「場外ホームラン打てる球」に手を出して、これが結構飛距離出てたし。モモンガ・コンプレックスは20~30分の枠内で一番力が出るんだということも感じた。2月の本公演、どうなる?
家主・興行主の冨士山アネットも、他の5つのイロモノに対して、変に斜に構えず正攻法で対峙して吉とでた。妙な意識の仕方したら、本当に軒を貸して母屋を取られるところだった。
こういう企画を東京芸術劇場でやる、というのも良し。同じ企画をアゴラとか王子でやったら、「まぁ、アゴラ(王子)ってのはそういう場所だから」という風に取られて、期待したざらつきが得られなかった可能性もあるかなーと思う。そういうのも含めて、気持ちよかった。
2010年1月17日日曜日
舞台と空間のWS09冬 杉山至「夕日を見つめるイメージ」
13/01/2010
アゴラ冬のサミットのワークショップ第二回。
舞台美術家の杉山至氏が講師を務めて、「夕日を見つめるイメージ」ときた。
前回の松井周氏とのセッションでは、「言霊」の威力を目の当たりにした。言霊が異界への鍵となり、その異界に「構成員」を閉じこめる呪力を「名付け」が持つという体験をしたわけである。さすが異界をコスプレする男、松井氏である。そこらへんに、テクストから芝居への変換点・結節点の磁場が存在するというのは、言いえて妙だろう。
が、今回の杉山氏はロゴスの人である。そして、実存さんである。なんと、ヴィトゲンシュタインとレヴィ=ストロース、寺山から説き起こして、「言霊以前」の状態を探ろうという、これまたなんと一種無謀な試みである。
「言霊以前」をどう「あらわす」か。
かたちとか光とか音とか身振りとか、色々あるのかもしれないけれど、こと僕自身のことで考えると、どうしても言葉や物語の補助輪無しでは「そっちの方へ向かってみる」ことすら出来ないことを思い知った。ワークショップの他の参加者の方たちが、なんともあっさりと言霊以前のところへ飛び込んでしまうセンス、嗅覚に驚き、敬意を覚える。
いやいやいや、これ、「舞台美術」の人のワークショップだよね。一体何の関係が?うーん。あ、そうだよね。テクストを渡された舞台美術家には、こうやって、言葉の一歩手前を探ってみることも大事なんだね。だって、劇場に入ってきた人たちはテクストより先に舞台に触れるんだもんね。大抵の場合。
こういう機会、すなわち、他人の眼から見た「言霊以前」を、割と「安全な」場で目の当たりにしたり、こういう視座で舞台を腑分けしてみる機会は、なかなかあるものではない。この日もまた、ヘビーな、でも、面白いワークショップだった。
アゴラ冬のサミットのワークショップ第二回。
舞台美術家の杉山至氏が講師を務めて、「夕日を見つめるイメージ」ときた。
前回の松井周氏とのセッションでは、「言霊」の威力を目の当たりにした。言霊が異界への鍵となり、その異界に「構成員」を閉じこめる呪力を「名付け」が持つという体験をしたわけである。さすが異界をコスプレする男、松井氏である。そこらへんに、テクストから芝居への変換点・結節点の磁場が存在するというのは、言いえて妙だろう。
が、今回の杉山氏はロゴスの人である。そして、実存さんである。なんと、ヴィトゲンシュタインとレヴィ=ストロース、寺山から説き起こして、「言霊以前」の状態を探ろうという、これまたなんと一種無謀な試みである。
「言霊以前」をどう「あらわす」か。
かたちとか光とか音とか身振りとか、色々あるのかもしれないけれど、こと僕自身のことで考えると、どうしても言葉や物語の補助輪無しでは「そっちの方へ向かってみる」ことすら出来ないことを思い知った。ワークショップの他の参加者の方たちが、なんともあっさりと言霊以前のところへ飛び込んでしまうセンス、嗅覚に驚き、敬意を覚える。
いやいやいや、これ、「舞台美術」の人のワークショップだよね。一体何の関係が?うーん。あ、そうだよね。テクストを渡された舞台美術家には、こうやって、言葉の一歩手前を探ってみることも大事なんだね。だって、劇場に入ってきた人たちはテクストより先に舞台に触れるんだもんね。大抵の場合。
こういう機会、すなわち、他人の眼から見た「言霊以前」を、割と「安全な」場で目の当たりにしたり、こういう視座で舞台を腑分けしてみる機会は、なかなかあるものではない。この日もまた、ヘビーな、でも、面白いワークショップだった。
2010年1月11日月曜日
シベリア少女鉄道スピリッツ キミ☆コレ
10/01/2010 ソワレ
大変面白くて刺激一杯の芝居。
最初の20分間の
「この演技は、絶対になにかすごーく細かい演出がついている。その結果としてのこの極めて不自然な間があるようなないようなタイムのとり方であり、身振りである。だからちょっと見た目芝居がたるく見えたとしても、シベリア少女鉄道がいつもそうだったように、絶対に気を抜いてはいけない。いつか報われるはず!」
というのが案の定報われて、嬉しさいっぱい。かつ、「そこまでやれるんですね」の脱帽感もあって、満喫。
変な「ツッコミ」を入れたりしないことで出てくるガンガンのドライブ感も気持ちがよかった。
観劇後、
「これは、ク・ナウカである」「これは、テレビを賑わす物まねカラオケ番組へのシベリア少女鉄道の回答である」=しかもこの面白さはテレビじゃ味わえませんぜ。
なぁんていうくだらないことをうだうだ話しながら帰宅。うん。くだらない。でも、くだらなくしてあるからこそ、なんである。数席とはいえ、席が空いていて通路も埋まらないのが不思議だ。
大変面白くて刺激一杯の芝居。
最初の20分間の
「この演技は、絶対になにかすごーく細かい演出がついている。その結果としてのこの極めて不自然な間があるようなないようなタイムのとり方であり、身振りである。だからちょっと見た目芝居がたるく見えたとしても、シベリア少女鉄道がいつもそうだったように、絶対に気を抜いてはいけない。いつか報われるはず!」
というのが案の定報われて、嬉しさいっぱい。かつ、「そこまでやれるんですね」の脱帽感もあって、満喫。
変な「ツッコミ」を入れたりしないことで出てくるガンガンのドライブ感も気持ちがよかった。
観劇後、
「これは、ク・ナウカである」「これは、テレビを賑わす物まねカラオケ番組へのシベリア少女鉄道の回答である」=しかもこの面白さはテレビじゃ味わえませんぜ。
なぁんていうくだらないことをうだうだ話しながら帰宅。うん。くだらない。でも、くだらなくしてあるからこそ、なんである。数席とはいえ、席が空いていて通路も埋まらないのが不思議だ。
舞台と空間のWS09冬 松井周「世界を名付け直す」
06/01/2010
こまばアゴラ劇場、冬のサミットのワークショップ企画、今年のテーマは「言葉を越えて...」。全6回のうち今回は初回、サンプル主宰の松井周氏を迎えて「世界を名付け直す」。
http://www.agora-summit.com/2009w/ws_butai.html
今回はアゴラ内稽古場に20人が集まって、「名前コスプレ」。続いて、6つのグループに分かれて、グループごとに、一定の名前のイメージに沿って周囲の事物を名付け直していくという、一歩間違えば、いや、間違わずとも、かなり危ない試みだった。
これは危ない。周囲の事物にこれまで「社会の共通の認識として」与えられていた名前を一旦剥ぎ取り、ずれた名前を与えてしまうのだから。要は、色んなものを共有する社会から自分のいるグループを切り離して、一つ新しい小社会を作っちゃってください。ということである。
名付けのプロセスは、「名付けが済んだもの」と「名付けの済んでいないもの」の区別を生み、そこに「内」と「外」、「おれたち」と「彼ら」を生む。名前は自分で付けるものではなく、他人につけられるものだから、そこには一種「権力」もはたらく。
そのプロセスに対して、がーっと一気に入り込んでいくグループ、入り込みきれず既存のロゴスに片足残しながら進めるグループ、捩じれ歪みながらも一つの歪んだ世界が出来てしまうグループ。そういったグループ毎の差異も大変面白かった。
昨年以来、「演劇とは名づけと名乗りのプロセスである」という命題がずっと引っ掛かっているのだけれど、うん、それは、そんなに焦点を外した引っ掛かりではないぞ、という気もしてきた。
こまばアゴラ劇場、冬のサミットのワークショップ企画、今年のテーマは「言葉を越えて...」。全6回のうち今回は初回、サンプル主宰の松井周氏を迎えて「世界を名付け直す」。
http://www.agora-summit.com/2009w/ws_butai.html
今回はアゴラ内稽古場に20人が集まって、「名前コスプレ」。続いて、6つのグループに分かれて、グループごとに、一定の名前のイメージに沿って周囲の事物を名付け直していくという、一歩間違えば、いや、間違わずとも、かなり危ない試みだった。
これは危ない。周囲の事物にこれまで「社会の共通の認識として」与えられていた名前を一旦剥ぎ取り、ずれた名前を与えてしまうのだから。要は、色んなものを共有する社会から自分のいるグループを切り離して、一つ新しい小社会を作っちゃってください。ということである。
名付けのプロセスは、「名付けが済んだもの」と「名付けの済んでいないもの」の区別を生み、そこに「内」と「外」、「おれたち」と「彼ら」を生む。名前は自分で付けるものではなく、他人につけられるものだから、そこには一種「権力」もはたらく。
そのプロセスに対して、がーっと一気に入り込んでいくグループ、入り込みきれず既存のロゴスに片足残しながら進めるグループ、捩じれ歪みながらも一つの歪んだ世界が出来てしまうグループ。そういったグループ毎の差異も大変面白かった。
昨年以来、「演劇とは名づけと名乗りのプロセスである」という命題がずっと引っ掛かっているのだけれど、うん、それは、そんなに焦点を外した引っ掛かりではないぞ、という気もしてきた。
新年工場見学会2010
03/01/2010 マチネ
新年五反田寄席、今年も一層くだらなく、黒田の一生・金子たけのりの半生を。
ほんっとにくだらないことをくだらなく。掛け値なしで楽しむ。
前田氏の当パン挨拶「今年一年も芸術っぽい考え過ぎの演劇をつくらないように」との意気込み(というか、意気込まなさ)は、エラい。
自分が(いや、演劇はずーっとつくってないですが)考え過ぎがちなのを思うとき、やはり、この「芸術っぽくしない」「考えすぎない」と公言できる態度に対しては、あからさまに嫉妬を感じる。
しかし、やっぱり、今年もぐじゅぐじゅ考えながら演劇に(私なりに)向き合うのだろう、あるいは向き合うのをサボったりするのだろう、と、それこそくだらないことをぐじゅぐじゅ考え過ぎる今日この頃ではあります。
新年五反田寄席、今年も一層くだらなく、黒田の一生・金子たけのりの半生を。
ほんっとにくだらないことをくだらなく。掛け値なしで楽しむ。
前田氏の当パン挨拶「今年一年も芸術っぽい考え過ぎの演劇をつくらないように」との意気込み(というか、意気込まなさ)は、エラい。
自分が(いや、演劇はずーっとつくってないですが)考え過ぎがちなのを思うとき、やはり、この「芸術っぽくしない」「考えすぎない」と公言できる態度に対しては、あからさまに嫉妬を感じる。
しかし、やっぱり、今年もぐじゅぐじゅ考えながら演劇に(私なりに)向き合うのだろう、あるいは向き合うのをサボったりするのだろう、と、それこそくだらないことをぐじゅぐじゅ考え過ぎる今日この頃ではあります。
青年団 カガクするココロ+北限の猿二本立て
02/01/2010
妻・娘を連れてアゴラへ。
この二本立て、実は余り冷静に見ていられないところもある。僕はこの二作の初演に、妻はカガクの初演、北限の再演に出演している。娘はカガク・北限の旅公演に随行した。本人は旅に行った記憶はあるが、芝居は覚えていないらしい。
僕は初演以来、どちらの再演・三演も観ていない。だから、カガクは1990年以来、北限は1992年以来、ほぼ20年ぶりに目にすることになる。
どうしても、自分の演じた役(かなりシャッフルはされていても)と比べてしまうところもあって、また、色んな余計なことも思い出してしまって、まぁ、それはそれで良いのかも知れないけれど。
「カガクするココロ」では、「過剰なことをする」余地が役者に与えられて、「おいしい」場面を随所にちりばめながら芝居が崩れないところに、1990年当時と比べて役者が格段に「上手に」なったんだと改めて思い知る。後に「東京ノート」でとんでもない完成度となる「現代口語の会話」のオーケストレーションの織り上げ方は、この芝居の時点ではそれほど緻密ではなかったのかなぁ、ということも考えた。
「北限の猿」は、「カガク」よりもオーケストレーションの度合いが上がる。役者もそれに応えて、よりまとまった感じ。オーケストラの音がぴったり合うと、むしろ音量が小さく聞こえる、と聞いたことがあるが、それに近い感じ。が、パス回しとアンサンブルが優先された分、破れのある瞬間が見えにくかったかもしれない。
カガク・北限、設定は似ているし、同じ「青年団の現代口語演劇」なんだけれど、作劇と演出の意図・カラーは違っていて「あ、だからこそ二本立てにしても大丈夫なんだ」と気が付いた。
カガクするココロの初演から20年経って、自分はすっかり取り残されてしまったけれど、「カガクするココロ」のざらつき方は、当時の「平田オリザが現代口語演劇に熟達するプロセスにおける、本当に過激に、ただ、だらだらしていた作品」を思い出させた。戯曲が「やぁ、しばらく」と言って迎えてくれたような気もして、ちょっと懐かしかった。
妻・娘を連れてアゴラへ。
この二本立て、実は余り冷静に見ていられないところもある。僕はこの二作の初演に、妻はカガクの初演、北限の再演に出演している。娘はカガク・北限の旅公演に随行した。本人は旅に行った記憶はあるが、芝居は覚えていないらしい。
僕は初演以来、どちらの再演・三演も観ていない。だから、カガクは1990年以来、北限は1992年以来、ほぼ20年ぶりに目にすることになる。
どうしても、自分の演じた役(かなりシャッフルはされていても)と比べてしまうところもあって、また、色んな余計なことも思い出してしまって、まぁ、それはそれで良いのかも知れないけれど。
「カガクするココロ」では、「過剰なことをする」余地が役者に与えられて、「おいしい」場面を随所にちりばめながら芝居が崩れないところに、1990年当時と比べて役者が格段に「上手に」なったんだと改めて思い知る。後に「東京ノート」でとんでもない完成度となる「現代口語の会話」のオーケストレーションの織り上げ方は、この芝居の時点ではそれほど緻密ではなかったのかなぁ、ということも考えた。
「北限の猿」は、「カガク」よりもオーケストレーションの度合いが上がる。役者もそれに応えて、よりまとまった感じ。オーケストラの音がぴったり合うと、むしろ音量が小さく聞こえる、と聞いたことがあるが、それに近い感じ。が、パス回しとアンサンブルが優先された分、破れのある瞬間が見えにくかったかもしれない。
カガク・北限、設定は似ているし、同じ「青年団の現代口語演劇」なんだけれど、作劇と演出の意図・カラーは違っていて「あ、だからこそ二本立てにしても大丈夫なんだ」と気が付いた。
カガクするココロの初演から20年経って、自分はすっかり取り残されてしまったけれど、「カガクするココロ」のざらつき方は、当時の「平田オリザが現代口語演劇に熟達するプロセスにおける、本当に過激に、ただ、だらだらしていた作品」を思い出させた。戯曲が「やぁ、しばらく」と言って迎えてくれたような気もして、ちょっと懐かしかった。
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