2008年9月7日日曜日

高山広のおキモチ大図鑑 「劇輪」

05/09/2008 ソワレ

なんと前回おキモチ大図鑑を拝見してから(確か渋谷ジャンジャン)10年以上の月日が経っている。この企画が始まったのが1988年ということだ から、じゃあ、最初の7年くらいは拝見してた勘定になるのだが、今になって観るとなると、高山さんの老け具合とか、身体が動くんだろうかとか、何だか技が 円熟していたらどうしようとか、そんなことを色々考えてザムザ阿佐ヶ谷に向かった。が、いろんな意味で変わってなかった。

20周年記念企画ということで、数あるネタの中から20個厳選して演じるのかとも思っていたが、それも違っていた。おそらく、どれも初見。しかしまぁ、高山さんらしいネタ8本、暑苦しいのもすべっちゃったのも含めて、併せて堪能させていただいた。

このテの一人芝居では、ある意味、「イッセー尾形のエピゴーネン」に陥らずになおかつ面白くなくてはならず、毎回非常に厳しい戦いとなることが予 想される。そこを見事に引き受けて20年ですか。すばらしい。暑苦しさとすべりネタが織り成すリズムが、平均点に陥らない、「高山さんでこそ」のものを求 める観客をひきつけていると見る。ちょっとうちわになったらやだな、とも思っちゃうのだが、まずは、愛されてこそ、というところから始まるので、そこは眼 をつぶるべし。

2008年9月2日火曜日

東京寄席スタイル vol. 3

02/09/2008 ソワレ

アゴラで体験するプチ寄席。落語の合間に色物中の色物、Jirox Dolls Show や渡辺香奈の"Moon Riba" がはさまって、こりゃ面白い。

アゴラのようなスタジオに高座を設けて落語家を放り込むのがまず面白い。噺家さんが大きく見える。声が出てるんだ、ということも良く分かる。演芸場やプロセニアム以外で見るとこういう存在感なのか、と改めて思うのが面白い。

Jirox Dolls Show は、ちょっと、これは、どうか、という感じで面白い。アゴラの醍醐味、といってしまって良いのか。いいのだ。Jiroxさん、歌、すっごく上手です。

武藤大祐氏のトークも面白かった。「面白さを突き詰める以外にない」とは真摯かつ深い。そういう発言を、トーク開始後3分で引き出してしまう林真 智子も凄い。面白さを突き詰める行為を、自分でパフォームするでもなく、批評に落とすでもなく、「東京寄席スタイル」という場を創ることでやってしまう武 藤真弓・林真智子コンビも面白い。

この企画、仕込み・バラシの手間がかからないのであれば、是非定期的にアゴラに呼んで組んでもらいたい。きっともっといろいろなことが出来るはず。

朱鷺色卵 こなたかなた

31/08/2008 ソワレ

観ていて浮かんできたキーワードは、「測る」。
時間を計る。お互いを測る、距離を測る、においを測る。
自分の腕の伸びる向きを測る、リーチを測る。

モダンダンスなのに、何だかロジックが常にまとわりついている気がしたのは、この「測る」というキーワードから僕が離れられなかったからだと考えられる。

後で当パンを読み返すと、川端康成のリリシズムにヒントを得たとあって、うーん、じゃあ、ロジカルな印象は本意じゃないのかな、と思うけれど、でも、僕が観ている間
「なんだか、ロジックからはみ出た動きはないものかなぁ」
と思っていたのは正直な話なので、そこは、観客としての技量不足かそれとも別の理由か。

いずれにせよ、ダンスを観ていてこんなにロジックを意識することは余りないので、それは面白い体験だった。

柿喰う客 真説・多い日も安心

31/08/2008 マチネ

千穐楽。

<以下、ネタバレ>


AV女優の天下獲りと秦の始皇帝を引っ掛けて物語りに落としたフレームの巧みさはさすが中屋敷法仁、バブル絶頂期の「カノッサの屈辱」を思い出させ、「焚書坑女」には+40歳の特権、思わず笑う。

でも、何故柿喰う客の芝居が面白いかというと、そういう「仕掛け」「プロット」が気が利いているとかではない。むしろ、そのプロットに沿って、2時間を怒涛のごっこ遊びで埋め尽くしてしまうキャパシティと気迫の濃さが凄いわけである。

ごっこ遊びをなめてかかってはいけない。子供がごっこ遊びをしている時のリアルさに関するルール決めのシビアさには、誰しも思い当たるところがあ ると思う。そこには、演じていて面白いか面白くないか、というとっても厳しい基準しかなくて、子供たるもの面白くないごっこからはすーーーっと離れていっ てしまうこと必定である。そこには、妙な説教臭さとかテーマとか世界の広がりとかは無用、とにかく遊びつくせ。そういう態度をもって「妄想エンターテイメ ント」と呼ぶのであれば、これはもう、そこに一枚かむほかない。

なので、柿喰う客が人気劇団になっても、それは、「サービス精神旺盛だから」だとは、僕は言わない。僕が柿喰う客を気に入るのは、「ごっこに徹する姿勢が果てしなく愛らしいから」である。
だって、僕は、柿喰う客に出てくるAVネタギャグも、テレビネタギャグも、最後にカラオケで歌う曲も、なーんも知らんもんね。でも観てて楽しい。「焚書坑儒」も「戦国の七雄」も知らん人だって充分楽しんでたじゃないか。

これからも、中屋敷法仁があくまでも自分の面白いと思うごっこ世界を、これでもかとばかりに創って壊して創って壊す、その勢いを、どうぞ失いませ んように。観客としての僕も、いつまでもそういうごっこ遊びを「面白い芝居」として受け容れられますように。なんだか、そういうことを祈ってしまうのであ る。

2008年9月1日月曜日

サンプル 家族の肖像

30/08/2008 ソワレ

いつもながら、ドーンと腹に溜まる芝居。満腹した。

某氏によれば、「辻美奈子フランス語レッスンにあわせてポエムを歌う」のシーンで、僕は「口をあんぐりと四角に開いて」観ていたらしいが、舞台によだれを落とさなくて良かった。
そこに限らず、「羽場さん三角関係へのお説教をあきらめる」とか、「木引いったい何をしたいのか」とか、「古館いんちき(?)ホーミー」とか、 「古屋会心の笑み」とか、「管理人の怒りはいつも理不尽」とか、「村上聡一最後まではじけないぞ」とか、口をあんぐりさせたり、笑いが噴出したりするのを 懸命に抑えなきゃならない局面が、スポラディックに現れては消えて、観終わった印象、「なんとエンターテイニングな2時間」!。ヘリコプターの屋根裏に2 時間幽閉されて覗き観る人々のうごめき。

直前に五反田駅前の歩道橋のふもとを走って消えたドブネズミの姿(おそらく連日の豪雨で下水が溢れ、住まいを失ったのだ)や屋根をたたく雨の音とあわせて、まさに人々がゴゾゴゾとうごめく姿が、全体のうねりや脈絡とは無縁に綴られて行く。

が、この脈絡の欠如が、一方で、「この芝居はどんな芝居ですか?」という問いに対して、「ドーンと来る」とかいうわけのわかんない形容と、個々の事象に即した説明しかできない理由となっている。

脈絡の欠如を「現代人の孤独」とか「絆の欠如」とかいってしまう紋切り型は無しとしても、しかし、この、脈略の欠如した一連のシーンに対して自分 なりの妄想スイッチを入れて外の世界を膨らませていく、あるいは勝手な物語をつないでいく作業にかなりの手間がかかることは間違いなく、結果、観終わって から1日たってもまだなお、うんうんうなっちゃってたりするわけである。
こういう、
① 説明すべき物語は一切排除して、
② かつ、そこから無理矢理何かを紡ごうとする観客にさえも挑戦していく
松井周の態度をどうとるか。松井氏にとっては納得感が高まりつつも(なぜなら、自分の考えていること・感じていることは何かなんて、高々2時間の 『物語』で語れるものではないのだから、突き詰めて考えれば、物語は排除されていって一種当然だ)、観客からは遠ざかっていく、あるいは、摑みどころがな くなっていく。「カロリーの消費」から本作と来て、次に同じ感じでもう3歩進んだら、ついていけなくなる可能性もすこーし感じてはいる。

最後にひとつ難癖つけるとすれば、古舘寛治の「40歳引きこもり老母に養ってもらってる」、まんま「薫の秘話」な設定は、ちと紋切り型な気がした んだけどな。いや、悪くない。悪くないんだけど、できるんだからもう一ひねりお願いしますよ、という気もしたのだけれど。どうでしょうか。

G-Up ペガモ星人の襲来

30/08/2008 マチネ

芝居自体のことをとやかく言う前に。
今回は有川マコトを観に行った。17-18年か前に一緒の芝居に出たことがあるけれど、それ以来彼が出ている芝居からご無沙汰している。この、一種「オールスターキャスト」的な舞台で、そろそろ不惑のはずの有川氏がどんな芝居をしているのか、いや、くどくど言う前に、
「元気かい?」
ということだ。で、元気な姿は相変わらずで、体型も実は17-18年前と変わってなかったな。嬉しかった。

あとは、岩井秀人の立ち居振る舞いが勉強になった。現代口語を自認する人間がこういう場でいかに舞台に立つか。小椋あずきとの夫婦漫才も含め、大いに笑わせていただいた。そして、大いに盗むべし、このしたたかさ。

そんなところでしょうか。

各駅停車 いつもの中に、沈む

9/08/2008 ソワレ

この芝居の弱点を諸々あげつらうことはそんなに難しくなくて、かつ、それは、最前線のことを目指す反作用としてのコントラバーシャルさでもないのだけれど、でも、今後、
・テクニカル・技術的な点をきちんとつぶしていく・改善していくのだろう、そして
・その中でどうしてもつぶしきれないものが作・演出の個性もしくは劇団のカラーとして出てくることになるだろう、と思う。

出来・完成度と較べれば、好感度はもてた芝居、ということか。

個別に気のついたところをいくつかあげると、
・固有名詞は、例え特定の色がついてしまうリスクを背負ってでも、使ったほうが良いということ。「この街」とか「あそこ」という言葉の連発は、実は「芝居を遠くしてしまって」良くない。また、日本を覆っていると語られる戦争の気配についても、もっと具体的でないと。「匂わせる」のにしては言及の回数も多いし。
・ひとつの手として、「具体的なもの」「身体に近いもの」をもっと使えば、それが、観客の想像力スイッチに手を伸ばすためのパンくずとして機能するはず。屋上から見える景色とか、服装とか、もっと小さいディテールとか。
・その意味で、出だしのシーン、失敗。「ああだ」「こうだ」で引っ張りすぎて、だれた。荻野組の苦労がしのばれる。
・同じ青年団組でも、大久保は色物な分だけ得をしたか。
そういう点は、振り返って他山の石とすべし。その意味で、勉強になる舞台だし、変な年寄りじみた言い方すると、「若い人たちの、これからが楽しみな芝居」ということになるんだろう。

ただし、逆に言えば、「舞台にあげる前につぶしておけたはずのポイント」も数多くあって、それが放置されたまま舞台に乗っちゃった、ということもできる。それをどこまで許容するかについては個別に差が出てくるだろう。
「大学時代をしのぶ若者たちの再会」という、おおむね現代口語演劇の紋切り型に近いといわれても仕方がないモチーフも含め、数多い課題を次回までにどこまで消化して、もっときちんと舞台に載せられるかどうかが勝負。