18/06/2008 ソワレ
初日。
黒子衣装の女優10人が歩んでみせる女の一生。ベタな物語に白黒の舞台なのだけれど、観終わってみると、凄く沢山の色付けが各シーンでされていることに気がつく。
ベタな物語であっても、シンプルな舞台であっても、その中から溢れてくる役者の「個」を観る喜び、そして、随所に出てくるすっごく個別の要素をきっかけとして自分の物語/妄想/想像のスイッチを入れる喜び。僕が芝居を観る喜びのツボにはまった芝居である。
芝居がはねた後、結構興奮して色んなことを喋り散らしていた気もするが・・・例えば、柴演出のファシズムと演出のデモクラシーについて(何のこっちゃ)、100人市民演劇構想、東京デスロックにおける山本雅幸の脛毛・・・今となっては自分でもその脈絡は不明だ。
で、どんな芝居なの?と聞かれたら、やっぱり分かりにくい喩えだが、ロンドンのアパートから見えた、ヒースローを離陸する旅客機みたいな話だ、と言おう。
僕の昔住んでたアパートの窓からは、ヒースローをきっちり40秒ごとに離陸する飛行機達が、左前方の木のこずえから、右の窓枠上方へと斜めに視界を横切っていくのが良く見えた。
一機目が窓枠左からゆっくりと右上方へと、僕の視界を横切っていく。
飛行機の尻尾が隠れる頃、今度は、左側、同じ木のこずえから、ほぼ同じ位置・角度・速さで次の旅客機が現われる。右へと横切る。
それが消えかける頃、次の飛行機が・・・
ぴたっと同じ動きを繰り返していくのだけれど、それは、スイス航空だったり、全日空だったり、ノースウエストだったり、そして、同じコースをそこでは辿っていくのに、じつは僕から見えないところで世界中の色んな場所に分かれて飛んでいくのだろう。なんだか不思議な気がして、見ていて飽きなかった。
この「あゆみ」も、おんなじくらい、いや、それ以上に、いくら見ていても飽きない芝居です。
<以下、ネタバレ気味に>
歩くペースであゆみの人生を辿っていって、山登りでスピードが遅くなる。すると、先読みする観客の常として、
「あ、終わりに差し掛かってきた。いつ、歩みが止まるのだろうか?」
というドキドキ感が高まる。
で、「立蔵葉子が止まった!」と思った瞬間に、それまで抑えたスピードに蓋をされていたものが舞台上にぶわーっと弾けて出てきて、思わず涙が出た。
そこで一回緩めておいて、その後はゆるーくふわふわと流していく緩急良し。
照明は工夫の余地有り。2人並んで歩く時、奥側の人の顔がくらーく見えちゃったのはもったいなかった。
2008年6月17日火曜日
消防士さんは子供の憧れ
通勤時に、会社近くの消防署から消防自動車が二台出て行くところだった。
今朝初めて気がついたのだが、消防自動車は、全身に意志を漲らせている。
「火事があったら、消しますよ」
という強い意志。余計なスペックは不要である。
火事で出動している訳ではないので2台揃って信号待ちしているところに、向こうから道を曲がって小学生の兄妹、登場。
2人ともじーっと消防自動車を見ながら、こっちに歩いてきたが、
ちょうど、消防自動車が発進するのと同じタイミングで、
兄、消防自動車のホースに「ぴとっ」と触ってみせた。
あぶねーよ、おまえ。でも、その触ってみる気持ち、痛いほど分かるよ。
イギリスで、消防自動車を見物に行って消防自動車に轢かれて死ぬ子供が結構いるっていうのも、とっても良く分かったよ。
今朝初めて気がついたのだが、消防自動車は、全身に意志を漲らせている。
「火事があったら、消しますよ」
という強い意志。余計なスペックは不要である。
火事で出動している訳ではないので2台揃って信号待ちしているところに、向こうから道を曲がって小学生の兄妹、登場。
2人ともじーっと消防自動車を見ながら、こっちに歩いてきたが、
ちょうど、消防自動車が発進するのと同じタイミングで、
兄、消防自動車のホースに「ぴとっ」と触ってみせた。
あぶねーよ、おまえ。でも、その触ってみる気持ち、痛いほど分かるよ。
イギリスで、消防自動車を見物に行って消防自動車に轢かれて死ぬ子供が結構いるっていうのも、とっても良く分かったよ。
2008年6月16日月曜日
流山児事務所 双葉のレッスン
16/06/2008 ソワレ
ごまのはえ氏のニットキャップシアター、彼岸の魚という芝居を1年くらい前に観て、なんだか80年代っぽい芝居だなー、もうちょっと突っ込んで書 ける人なんじゃないかなー、と思っていたのだが、何と今回、すっごく良く書けた台本で、さすがに作者のごまのはえ氏、天野天街・流山児祥の両氏に五度も書 き直させられただけの事はある。
前半の繰り返しパートのドライブ感、ズラしを入れながらの後半への加速感はなんとも観ていて心地よく、観客が「種明かしに向けたヒント」を見つけ に走らないよう、エンターテイニングに、テンポ良く進む。このテンポは2年前に早稲田で同じく天野演出の芝居を観た時と同様で、ああ、これが天野節なの か、と思ったりもする。
そういうわけで、後半に差し掛かるまで、悪い意味ではなくて、「80年代演劇との幸福な再会」な感じがしていたのである。正直、それだけでも、この芝居、観る価値はあると思う。
でも、最後になって、このわけの分からない話の風呂敷を、何と、畳んで、オチをつけてしまったのは、とても残念。これだけしつこくめくるめく不条 理な繰り返しを見せ付けているのだから、そこから物語を妄想する作業と勝手なオチをつける作業は、客に任せてほしかった。メッセージは要らない。ただた だ、役者が舞台上をぐるぐると巡り続けるだけで、スッごく強力な、まさに「演劇でしか出来ない」舞台になっていたのじゃないかと、思ってしまった。
そこらへんが、実は、80年代に僕が観ていた芝居に感じていた限界と妙に重なって、懐かしいというか、惜しいというか。
ごまのはえ氏のニットキャップシアター、彼岸の魚という芝居を1年くらい前に観て、なんだか80年代っぽい芝居だなー、もうちょっと突っ込んで書 ける人なんじゃないかなー、と思っていたのだが、何と今回、すっごく良く書けた台本で、さすがに作者のごまのはえ氏、天野天街・流山児祥の両氏に五度も書 き直させられただけの事はある。
前半の繰り返しパートのドライブ感、ズラしを入れながらの後半への加速感はなんとも観ていて心地よく、観客が「種明かしに向けたヒント」を見つけ に走らないよう、エンターテイニングに、テンポ良く進む。このテンポは2年前に早稲田で同じく天野演出の芝居を観た時と同様で、ああ、これが天野節なの か、と思ったりもする。
そういうわけで、後半に差し掛かるまで、悪い意味ではなくて、「80年代演劇との幸福な再会」な感じがしていたのである。正直、それだけでも、この芝居、観る価値はあると思う。
でも、最後になって、このわけの分からない話の風呂敷を、何と、畳んで、オチをつけてしまったのは、とても残念。これだけしつこくめくるめく不条 理な繰り返しを見せ付けているのだから、そこから物語を妄想する作業と勝手なオチをつける作業は、客に任せてほしかった。メッセージは要らない。ただた だ、役者が舞台上をぐるぐると巡り続けるだけで、スッごく強力な、まさに「演劇でしか出来ない」舞台になっていたのじゃないかと、思ってしまった。
そこらへんが、実は、80年代に僕が観ていた芝居に感じていた限界と妙に重なって、懐かしいというか、惜しいというか。
中野成樹+フランケンズ 夜明け前後
15/06/2008 マチネ
フランケンズ、初見。
「誤意訳」というのだから、翻訳劇っぽくないのだろう、現代口語っぽい日本語訳とはどういうものなのだろう、という興味があったのだけれど、幕 前、福田氏(だったっけ?)が「割とストレートに訳して」と言っていた通り、というか、原文読む前に額面どおりに受け取っていいのか知らないが、壊れきっ た日本語訳ではなかったと思う。
ただ、その辺の、「100%現代口語に持ってきてないんだよ~」というような引っ掛かりが、面白かった。
「こんな風にしゃべるやつなんていねーよ」的な突っ込みを入れるよりも、
「こんな風に日本語喋るやつって、どうなんだろう」的な興味の入り方。
誤意訳部分と下西氏書き下ろしの前日譚と、どことなく「リズム」というか「うねり」が違っていて、それもまた、面白い。
「短々とした仕事」だけあって、淡々と始まり、淡々と終わったが、こういう、昆布茶みたいな芝居が観られる環境にいることは、われながら幸せだと 思う。本当はおじさんには気がつかないような毒が入ってるのかもしれないが、湯のみ一杯では「あれ?ピリッときた?」位のことである。
昆布茶なので、終演後ホーンがパラパーーッと鳴り響く必要は無いと思ったが、石塚レイ氏の当パンの文章とっても面白くて、曲も面白かったので、それも良し。楽しかった。乾電池の月末劇場じゃないけど、木曜の夜の会社帰りに寄って行きたい芝居かな。
フランケンズ、初見。
「誤意訳」というのだから、翻訳劇っぽくないのだろう、現代口語っぽい日本語訳とはどういうものなのだろう、という興味があったのだけれど、幕 前、福田氏(だったっけ?)が「割とストレートに訳して」と言っていた通り、というか、原文読む前に額面どおりに受け取っていいのか知らないが、壊れきっ た日本語訳ではなかったと思う。
ただ、その辺の、「100%現代口語に持ってきてないんだよ~」というような引っ掛かりが、面白かった。
「こんな風にしゃべるやつなんていねーよ」的な突っ込みを入れるよりも、
「こんな風に日本語喋るやつって、どうなんだろう」的な興味の入り方。
誤意訳部分と下西氏書き下ろしの前日譚と、どことなく「リズム」というか「うねり」が違っていて、それもまた、面白い。
「短々とした仕事」だけあって、淡々と始まり、淡々と終わったが、こういう、昆布茶みたいな芝居が観られる環境にいることは、われながら幸せだと 思う。本当はおじさんには気がつかないような毒が入ってるのかもしれないが、湯のみ一杯では「あれ?ピリッときた?」位のことである。
昆布茶なので、終演後ホーンがパラパーーッと鳴り響く必要は無いと思ったが、石塚レイ氏の当パンの文章とっても面白くて、曲も面白かったので、それも良し。楽しかった。乾電池の月末劇場じゃないけど、木曜の夜の会社帰りに寄って行きたい芝居かな。
2008年6月15日日曜日
SPAC 鳥の劇場 剣を鍛える話
14/06/2008 ソワレ
物語と舞台芸術の幸福な結合。劇場・観客・天候・魯迅・音響・役者の動き・語り、全てが何を足しても何を引いてもこうはならなかっただろう、とでもいうかのように結びついて、素晴しいステージだった。
糸を紡ぎながら・洗濯しながら・炊事をしながら、子に物語をする母親。酒を飲みながら物語を「読む」親爺。物語られる登場人物たち。観客はそれらを見比べながら、自分の立ち位置を確認しつつ、いつしか物語の中に引き込まれるのだが、その引き込み方の巧みさは、素材の選び方と場の設定の仕方に多くを負っている。
「語られている物語の舞台は、多分、中国なのだろう。でも、おおきみ、って、どこの言い回しだ?」というのと、「語られている現場として提示されている場所は、おそらく、日本なのだろう。でも、一体、いつの時代だ?」という、2つの引っ掛かりが全体に覆いかぶさって、それが、物語提示型舞台にありがちな「突っ込みたくなるポイント」をうまーく回収していく。
例えば、語りの中で、現代口語演劇なら「多分」というところ、「おそらく」という言葉が発せられると、普通は、「あぁ、翻訳劇、っぽい」と思うのだけれど、それが、①魯迅の語りだからか、②中国の語りだからか、③母親の口伝だからか、と思ううちに、スーッとどこかに回収されて、逆に物語世界に引き込まれていく。斬られた首が舞う場面も、奇術師がメガネをかけ巨大な蝶ネクタイを締めているのも、全体の物語の構造の中できっちり成立していた。
凄く乱暴に言うと、作・演出の意図は、物語を語られるあの気持ちよさの再現にあると思われた。耳から入った情報をもとに子供が織り上げる妄想・想像の世界をどうやって舞台に載せるか。しかも、ここの観客の想像力に出来るだけ多くを委ねながら。そういう、ちょっと考えると、自分の個人的な気持ちよさにとどめておいて共有を諦めてしまいたくなる様な難しい連立方程式を、こうしてすんなりと舞台に載せてしまった手管に、素直に脱帽した。
加えて、魯迅の物語→語り手の物語→舞台を観る観客の物語 の入れ子構造の中に、図らずも、あるいは、測ったの如くにカラフルなノイズが埋め込まれて、まるで魯迅の物語の朗読をSP盤78回転で、戦前に耳を澄まして聞いた子供達のことを想像しながら聴いている、そういう気分にもなった。幸せな場だった。
作・演出の中島氏は、実は彼の大学時代から知っていて、だけれども一緒に芝居することもなく、また、留年の回数の多寡もあって卒業年次も異なり、20年近く彼の居場所について全く知らなかった。そういう人の芝居を観るのは、「気に入らなかったらどうしよう」というネガティブなドキドキ感が付きまとう(自分が現代口語演劇に入れ込んでいれば尚の事である)のだが、いや、身内びいきじゃないが(身内というほど近しくもないのだが)、素晴しい仕事である。素晴しい。という思いとともに、自分の過去20年を思って自責の念を感じないでもない。クヤシイ!それが、新宿に向かうバスに乗り込む直前、僕の頭の中に詰まっていた単語です。
物語と舞台芸術の幸福な結合。劇場・観客・天候・魯迅・音響・役者の動き・語り、全てが何を足しても何を引いてもこうはならなかっただろう、とでもいうかのように結びついて、素晴しいステージだった。
糸を紡ぎながら・洗濯しながら・炊事をしながら、子に物語をする母親。酒を飲みながら物語を「読む」親爺。物語られる登場人物たち。観客はそれらを見比べながら、自分の立ち位置を確認しつつ、いつしか物語の中に引き込まれるのだが、その引き込み方の巧みさは、素材の選び方と場の設定の仕方に多くを負っている。
「語られている物語の舞台は、多分、中国なのだろう。でも、おおきみ、って、どこの言い回しだ?」というのと、「語られている現場として提示されている場所は、おそらく、日本なのだろう。でも、一体、いつの時代だ?」という、2つの引っ掛かりが全体に覆いかぶさって、それが、物語提示型舞台にありがちな「突っ込みたくなるポイント」をうまーく回収していく。
例えば、語りの中で、現代口語演劇なら「多分」というところ、「おそらく」という言葉が発せられると、普通は、「あぁ、翻訳劇、っぽい」と思うのだけれど、それが、①魯迅の語りだからか、②中国の語りだからか、③母親の口伝だからか、と思ううちに、スーッとどこかに回収されて、逆に物語世界に引き込まれていく。斬られた首が舞う場面も、奇術師がメガネをかけ巨大な蝶ネクタイを締めているのも、全体の物語の構造の中できっちり成立していた。
凄く乱暴に言うと、作・演出の意図は、物語を語られるあの気持ちよさの再現にあると思われた。耳から入った情報をもとに子供が織り上げる妄想・想像の世界をどうやって舞台に載せるか。しかも、ここの観客の想像力に出来るだけ多くを委ねながら。そういう、ちょっと考えると、自分の個人的な気持ちよさにとどめておいて共有を諦めてしまいたくなる様な難しい連立方程式を、こうしてすんなりと舞台に載せてしまった手管に、素直に脱帽した。
加えて、魯迅の物語→語り手の物語→舞台を観る観客の物語 の入れ子構造の中に、図らずも、あるいは、測ったの如くにカラフルなノイズが埋め込まれて、まるで魯迅の物語の朗読をSP盤78回転で、戦前に耳を澄まして聞いた子供達のことを想像しながら聴いている、そういう気分にもなった。幸せな場だった。
作・演出の中島氏は、実は彼の大学時代から知っていて、だけれども一緒に芝居することもなく、また、留年の回数の多寡もあって卒業年次も異なり、20年近く彼の居場所について全く知らなかった。そういう人の芝居を観るのは、「気に入らなかったらどうしよう」というネガティブなドキドキ感が付きまとう(自分が現代口語演劇に入れ込んでいれば尚の事である)のだが、いや、身内びいきじゃないが(身内というほど近しくもないのだが)、素晴しい仕事である。素晴しい。という思いとともに、自分の過去20年を思って自責の念を感じないでもない。クヤシイ!それが、新宿に向かうバスに乗り込む直前、僕の頭の中に詰まっていた単語です。
SPAC ハビマ国立劇場・カメリ劇場 アンティゴネ
14/06/2008 マチネ
悲劇とは、「神の掟」と「人の掟」の狭間に投げ込まれ、破滅への道筋を辿らなければならないことに自覚的でありながらなお破滅へと突き進む一人間が、そこで逡巡しつつも立ち止まることが出来ない、その内面のジレンマにこそ存在する、と、このプロダクションを観て学んだ。
この素晴しいプロダクションの中で、悲劇を背負うのはクレオンである。そして、立ち位置を右に左に揺らしながらテーバイの破滅を見届けなければならない退役軍人たち(コロスたち)である。
物語をドライブするのはもちろんアンティゴネである。ただし、彼女が「人の掟」に逆らい「神の掟」を選び取ることは、「悲劇的」ではない。少なく とも彼女はこのプロダクションでは、(最後の最後、感情にとらわれかけるその一瞬を除いては)、ただの感情に流されて聞き耳を持たない人であるかのように 描かれており、クレオンにとっては、自分が悲劇的状況に陥るきっかけを作った困った人であり、テーバイの市民にとっては、自らの運命を方向付ける(だがし かしその運命はどうやら自分達に都合が良くないものになりそうだ)新たなスフィンクスである。
ハイモンもまた、父に妥協を請い、最後には恋人とともに死ぬわけだから、その物語は充分表面上「悲劇的」なのだけれど、恋に生き、恋に死ぬその物語は、「神の掟」と「人の掟」の拮抗の1つの帰結ではあっても、悲劇的ではない。
クレオンの悲劇は、アンティゴネが最初に捕らえられてきたのを発見した際の驚きと戸惑いと、あの、「困ったことになった」という表情に集約されて おり、そこが、小生にとってのこの芝居の「臍」であった。そこにおいてクレオンは、今まさに自分が悲劇的状況に投げ込まれ、運命のレールをくだり始めたこ とを知る。後は運命のみぞ知る。
そのクレオンの運命を横目で見るテーバイの市民達もまた、運命の虜である。市民はアンティゴネに同情しさえすれ、クレオンの掟を進んで破ろうとは しない。その意味で、知恵と歴史がそのジャケットの中に詰め込まれた退役軍人たちは、オーウェルの動物農場に出てくるロバを思い出させる。
クレオンもテーバイの市民達も観客も、「神の掟」に逆らうことが破滅への一本道であることにはとうに気がついている。何となれば、舞台奥の壁の上には英語とヘブライ語で、
"Great Words of Pride Will Be Heavily Punished"
と大書してあるではないか。それに充分自覚的でありながら、なおかつここの意思決定において「人の掟」を選び取らざるを得ないクレオンのジレンマ こそ、すぐれて「アンティゴネ」の現代的テーマなのであり、その一点において、観客はクレオンに、はたまた舞台上の退役軍人たちに、感情移入することが出 来る。
このプロダクションには、2006年の第二次レバノン紛争に触発された部分が大きい、と演出のスニル氏は語った。2006年の最終的な停戦では、 シーア派武装勢力ヒズボラが「勝利宣言」を出す一方で、イスラエル側は当初作戦に失敗し、時の政権が政治的・外交的ダメージを受ける結果となっている。
"Great Words of Pride Will Be Heavily Punished"
イスラエル政府はその傲慢さゆえに作戦に失敗し、ヒズボラに外交的勝利を収めさせてしまったのだろうか。そしてそのことが1つの悲劇としてこのプ ロダクションを触発したのだろうか?いや、そんな表層的な類似だけで、このプロダクションがここまで力強いものとなったとはとても思えない。
もしもソフォクレスの悲劇がイスラエル・レバノン紛争と通底するものを持ち、また、より普遍的な現代への力強いインプリケーションを持つとすれ ば、それは、破滅へと繋がりかねない状況に放り込まれていることに充分自覚的でありながら、なお、いくさを続けるという選択肢を選び取らざるを得ないイス ラエル政府/軍の指導者のジレンマが、そしてその選択肢に必ずしも100%同意できずとも、積極的に「否」という選択肢もありえないイスラエル国民のジレ ンマが、まさに、運命に虜われた状況として、悲劇的だからである。
アンティゴネが「神の掟」を選び取って死に至り、「神の掟」を退けたクレオンとテーバイを滅ぼしたのに対し、現在の中東では、「神」を前面に出す者達が両陣営において破滅へと繋がりかねない選択肢を強く推している状況には、一種の皮肉を感じる。
もちろん、この芝居が戦火の中東でのみ成立する悲劇であると結論付けるのは早計に過ぎる。例えば、静岡の舞台上に載っているのが、勲章をつけた後 期高齢者のコロスたち、老人への手厚い福祉を訴えるアンティゴネと、財政再建・福祉充実のジレンマに喘ぐクレオン・政権与党の姿だ、と考えてみても構わな いだろう。重要なのは、このプロダクションが、「悲劇的であること」を大きな物語から引き離し、個人レベルに落とし込んで見せたこと、それによって観客 は、一個人から始まって、自由な大きな物語を逆に編み上げていく自由を与えられた、ということである。芝居における普遍はとことん個に拘ることから生じる ことの、素晴しい一例だと思う。
悲劇とは、「神の掟」と「人の掟」の狭間に投げ込まれ、破滅への道筋を辿らなければならないことに自覚的でありながらなお破滅へと突き進む一人間が、そこで逡巡しつつも立ち止まることが出来ない、その内面のジレンマにこそ存在する、と、このプロダクションを観て学んだ。
この素晴しいプロダクションの中で、悲劇を背負うのはクレオンである。そして、立ち位置を右に左に揺らしながらテーバイの破滅を見届けなければならない退役軍人たち(コロスたち)である。
物語をドライブするのはもちろんアンティゴネである。ただし、彼女が「人の掟」に逆らい「神の掟」を選び取ることは、「悲劇的」ではない。少なく とも彼女はこのプロダクションでは、(最後の最後、感情にとらわれかけるその一瞬を除いては)、ただの感情に流されて聞き耳を持たない人であるかのように 描かれており、クレオンにとっては、自分が悲劇的状況に陥るきっかけを作った困った人であり、テーバイの市民にとっては、自らの運命を方向付ける(だがし かしその運命はどうやら自分達に都合が良くないものになりそうだ)新たなスフィンクスである。
ハイモンもまた、父に妥協を請い、最後には恋人とともに死ぬわけだから、その物語は充分表面上「悲劇的」なのだけれど、恋に生き、恋に死ぬその物語は、「神の掟」と「人の掟」の拮抗の1つの帰結ではあっても、悲劇的ではない。
クレオンの悲劇は、アンティゴネが最初に捕らえられてきたのを発見した際の驚きと戸惑いと、あの、「困ったことになった」という表情に集約されて おり、そこが、小生にとってのこの芝居の「臍」であった。そこにおいてクレオンは、今まさに自分が悲劇的状況に投げ込まれ、運命のレールをくだり始めたこ とを知る。後は運命のみぞ知る。
そのクレオンの運命を横目で見るテーバイの市民達もまた、運命の虜である。市民はアンティゴネに同情しさえすれ、クレオンの掟を進んで破ろうとは しない。その意味で、知恵と歴史がそのジャケットの中に詰め込まれた退役軍人たちは、オーウェルの動物農場に出てくるロバを思い出させる。
クレオンもテーバイの市民達も観客も、「神の掟」に逆らうことが破滅への一本道であることにはとうに気がついている。何となれば、舞台奥の壁の上には英語とヘブライ語で、
"Great Words of Pride Will Be Heavily Punished"
と大書してあるではないか。それに充分自覚的でありながら、なおかつここの意思決定において「人の掟」を選び取らざるを得ないクレオンのジレンマ こそ、すぐれて「アンティゴネ」の現代的テーマなのであり、その一点において、観客はクレオンに、はたまた舞台上の退役軍人たちに、感情移入することが出 来る。
このプロダクションには、2006年の第二次レバノン紛争に触発された部分が大きい、と演出のスニル氏は語った。2006年の最終的な停戦では、 シーア派武装勢力ヒズボラが「勝利宣言」を出す一方で、イスラエル側は当初作戦に失敗し、時の政権が政治的・外交的ダメージを受ける結果となっている。
"Great Words of Pride Will Be Heavily Punished"
イスラエル政府はその傲慢さゆえに作戦に失敗し、ヒズボラに外交的勝利を収めさせてしまったのだろうか。そしてそのことが1つの悲劇としてこのプ ロダクションを触発したのだろうか?いや、そんな表層的な類似だけで、このプロダクションがここまで力強いものとなったとはとても思えない。
もしもソフォクレスの悲劇がイスラエル・レバノン紛争と通底するものを持ち、また、より普遍的な現代への力強いインプリケーションを持つとすれ ば、それは、破滅へと繋がりかねない状況に放り込まれていることに充分自覚的でありながら、なお、いくさを続けるという選択肢を選び取らざるを得ないイス ラエル政府/軍の指導者のジレンマが、そしてその選択肢に必ずしも100%同意できずとも、積極的に「否」という選択肢もありえないイスラエル国民のジレ ンマが、まさに、運命に虜われた状況として、悲劇的だからである。
アンティゴネが「神の掟」を選び取って死に至り、「神の掟」を退けたクレオンとテーバイを滅ぼしたのに対し、現在の中東では、「神」を前面に出す者達が両陣営において破滅へと繋がりかねない選択肢を強く推している状況には、一種の皮肉を感じる。
もちろん、この芝居が戦火の中東でのみ成立する悲劇であると結論付けるのは早計に過ぎる。例えば、静岡の舞台上に載っているのが、勲章をつけた後 期高齢者のコロスたち、老人への手厚い福祉を訴えるアンティゴネと、財政再建・福祉充実のジレンマに喘ぐクレオン・政権与党の姿だ、と考えてみても構わな いだろう。重要なのは、このプロダクションが、「悲劇的であること」を大きな物語から引き離し、個人レベルに落とし込んで見せたこと、それによって観客 は、一個人から始まって、自由な大きな物語を逆に編み上げていく自由を与えられた、ということである。芝居における普遍はとことん個に拘ることから生じる ことの、素晴しい一例だと思う。
2008年6月9日月曜日
南河内万歳一座 ジャングル
08/06/2008 マチネ(千穐楽)
相変わらず巧拙渦巻く舞台上、下手だの無理があるだのと言わば言え、誰が何と言おうと1時間30分押し切るぞ、という気合に免じて(いや、免じなくとも)言おう。 おもしろかった。
何と言おうか、餃子を包むちっちゃなちっちゃな手付きの丁寧さ、スーパー巡り3人組の「何もここまで作らんでも」な作りこみ方と、相撲からラスト になだれ込んでいくあのぞんざいさが、どうやったら同じ芝居の中に共存できるのか。ひょっとしたら、実は、何も考えてないだけなんじゃないか。
80年代に置いてきたはずの「あの」こっ恥ずかしい立ち回りやギャグやリリシズムや三人組やなんやかやを、そのままリヤカーに乗っけて、そのリヤカーを肩に担いで全力で走っている、そんな印象の芝居である。半年に一回くらい、本当に観たくなってしまう類の芝居だ。
相変わらず巧拙渦巻く舞台上、下手だの無理があるだのと言わば言え、誰が何と言おうと1時間30分押し切るぞ、という気合に免じて(いや、免じなくとも)言おう。 おもしろかった。
何と言おうか、餃子を包むちっちゃなちっちゃな手付きの丁寧さ、スーパー巡り3人組の「何もここまで作らんでも」な作りこみ方と、相撲からラスト になだれ込んでいくあのぞんざいさが、どうやったら同じ芝居の中に共存できるのか。ひょっとしたら、実は、何も考えてないだけなんじゃないか。
80年代に置いてきたはずの「あの」こっ恥ずかしい立ち回りやギャグやリリシズムや三人組やなんやかやを、そのままリヤカーに乗っけて、そのリヤカーを肩に担いで全力で走っている、そんな印象の芝居である。半年に一回くらい、本当に観たくなってしまう類の芝居だ。
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