2008年2月11日月曜日

みやざき◎まあるい劇場 こふく劇場プロデュース 隣の町

10/02/2008 マチネ

エイブルアート・オンステージが開くコラボ・シアター・フェスティバル。昨年シアター・トラムで観た時も、ガチンコの芝居として凄いものができる可能性を感じていたが、今回は青年団山内健司も出演ということで、かなりの期待感を持って観に行った。

去年も同じことを考えたのだけれど、エイブルアートの芝居を観る時には、
「障がい者がこんなに頑張っているんだぁ」
というような、ぐぁんばりに対する陳腐な賞賛と半ば見下した拍手・涙は厳禁である。
あくまでもガチンコで観る。駄目だったら駄目と言う。良かったら何が良いのかを言えるように観る。
人間、弱いので、ともすると「障がい者でよくぞここまで」という安易な感想に走りがちなので、そこは心して。安易な涙はいかんぞ。と思って臨んだのだが。
終演後、山内氏から、「泣きすぎじゃない?」と言われるくらいに、目が赤くなっていたようだ。

まず、これは、とんでもない戯曲だ。シンプルで太い線で、がっ、がっと力強く時を刻む。その力強さは、物語で観客を引っ張ろうとする強引な力では なくて、力士の足が地面をがっと打つ、その力強さである。余計な台詞を散りばめず、真っ直ぐな台詞の彫刻刀で時空を削れば、たちまちそこに此の町とあの町 を繋ぐ線路と駅舎が生じて、役者の足許に大地が広がる。もちろん、太い線だからこそ繊細さを持ちあわせる。ここしかないという位置取り、組み合わせ。非常 に勉強になる。

作・演出が同一人物なので、ある程度当然なのかもしれないけれども、演出も、戯曲の意図と力強さを同時に伝えて過不足がない。演出は、役者に説明を一切求めていない。きちんと立つことを要求しているに違いない。明確である。

そして役者。何と見事に立っていることか。去年、東京乾電池の新年公演を見たときに、まるで、柄本さんが若い役者達に
「君達はね、余計なことをしなくても、充分面白いんだよ。だから、安心して舞台に立っていなさい」
と言ってるんじゃないかという気がしたけれど、今回の舞台でも、そういう、演出と役者の信頼関係が際立って、そこでもう、涙が出てしまう。

和田祥吾は前評判通り、舞台の全体に目配りを利かせた立ちで魅せてくれたけれど、でも、芝居はアンサンブルなので、決して和田氏だけではないの だった。三人組、麻里、みっちゃん、駅員兄弟、それぞれが、どんな我を張るでもなく、それでいてしっかりと舞台上の「この瞬間」に根を張っているのが、ど うにも凄い。これが、芝居の醍醐味なのだ。

永山智行おそるべし。こふく劇場おそるべし。みやざき◎まあるい劇場おそるべし。宮崎は東国原だけじゃなかった。そして、このプロダクションを東京につれてきたエイブルアートおそるべし。
自らのアンテナが低かったにも拘らずこの芝居を観る機会に恵まれた自分は非常に運が良かった。

2008年2月10日日曜日

五反田団 さようなら僕の小さな名声

09/02/2008 ソワレ

雪の渋谷、NHKふれあいホール。五反田団におよそ似つかわしくないひろ~いホールである。舞台上に前のめり傾斜舞台を組み、マイクで台詞を拾っての、「さようなら僕の小さな名声」再演。

僕は、前田氏は本来この戯曲で岸田賞を取るべきだったと思うくらいにこのハナシが好きで、今回も堪能した。

芝居がはねた後、7,8年ぶりくらいにあった友人とその連れと、僕の連れと、4人で飲んでて、その友人が、
「お話としては、くいしんぼうのあおむしくん、だよな」
と指摘。そうだ!くいしんぼうのあおむしくんだ!忘れていた、あの「こどものとも」の傑作を!

そして、なおも彼曰く、
「最後は、もうこれ以上かけません、っていって終わっちゃってるよな」
との指摘で、うーむ、それって、去年の岸田戯曲賞の選評でも、複数の委員が指摘していたぞ。チミ、鋭いよ。僕は、でも、そういう投げ出し方って好きですが。

NHKトップランナーのネタは正直微妙にスベっているのではないか、との評価が大勢であったが、全体として、そのウルサ方の友人もしっかり1時間50分観たんだから、全体としても面白かったんだろう。

僕としては、大蛇に呑まれるのが「彼女」だったのが、ちょっと残念だった(ずっと「アニマ」かと思っていたので)のと、マターン人三人家族を存分に堪能したこと、リスの小技にも注目できたこと、などが収穫でした。

このお芝居を見逃したという方は、せめて福音館の「くいしんぼうのあおむしくん」でも買って読んで、涙を流してください。僕はあおむしくんよりも立蔵葉子のほうに泣けるが。

文学座+青年団 パイドラの愛

09/02/2008 マチネ

まず、好き嫌いから言う。気に喰わなかった。
何が気に喰わないかというと、戯曲が全く気に喰わない。

義母とその連れ娘を愛人とし、さらに司祭まで手篭めにしてしまうセックスマニアの男の話。
最後は義母自殺、自分は連れ娘と一緒になぶり殺しに会う。そういう話。

チラシによれば、「私の責任はたった一つ。真実を書くことです。それがどんなに不愉快なことであろうと。私は私です。他人がそうであってほしいと 望む私ではありません」と、作者のサラ・ケインは言っているようだが、彼女は、自分の真実には興味があっても、他人の真実には興味がなかったのではないか と思われる。

演出の松井氏は、一方で、「サラ・ケイン戯曲がオール・オア・ナッシング精神を発していたり、死の束縛を受けているかのような印象は、まやかし だ」という趣旨のことを言ってのけていて、それは凄く当たっている。あるいは、彼は、少なくとも、Aさんの真実とBさんの真実を較べてみて、その中で最も そりの合わなさそうなところを舞台に乗っけておいて、舞台袖でイヒヒと笑ってるくちの演出家である(AさんとBさんは、役者同志でも、役者と観客でも良 い)。今まで観た芝居は少なくともそうだった。

だから、この芝居の勝負どころは、自分の真実にしか興味のない作者によるベタベタベッタリな戯曲を、
舞台上で繰り広げられるコスプレの中では、外側に纏うコスチュームを引っ剥がしたところでそこに顕れる裸は実はストリッパーの裸と同じくらいコス チュームでしかないことを自覚しながら、そのコスチュームの際限のない取替えっこや脱がしっこに異常な興味を見せる変態演出家がどう料理するか、
という点にあったと思う。

で、その結果はというと、すっごく数の多い「見どころ」が散りばめられて、そんじょそこらでは見られないものを見させてもらったとは言うものの、
「どう?このショッキングでスキャンダラスなお話に驚いてね。」
というサラ・ケインのメッセージを打ち消すまでには至らなかった印象である。サラ・ケインの亡霊恐るべし。

2008年2月9日土曜日

小指値 霊感少女ヒドミ

08/02/2008 ソワレ

お洒落でビジュアルで身体も動く。一見、40のおじさんに立ち入る隙はない。
が、三浦俊輔の演技は、ご本人には失礼ながら、おじさんが一瞬で感情移入してうるうるするのに充分だった。

岩井秀人の台本は、彼がしゃべるために書かれていたのかぁ!とも思わせる。
岩井秀人の台本の自虐は、実は三浦いぢめだったのかぁ!とも思ってしまう。
それくらいに、三浦氏の演技にうなった。
「おかえりなさぁい」で手を振るところからおっと思う。体幹が定まらない立ちもまた良い。

全体に、センスだけじゃないぜ、という自負も溢れて、小癪な連中であった。

1つアゲアシ取るとすれば、オルガさんには是非ロシア語で話してほしかったな。パッと見、顔つきとか体の動かし方とかロシア人風だったし、おそらくネイティブ英語じゃないと思ったのだが、どうか。

2008年2月7日木曜日

城山羊の会 新しい橋

06/02/2008 ソワレ

面白かった。前回ほしのホールで観た時は、ムーン、次は観ないかな、と思っていたので、何だか拾いものをした気分だ。
変態役者古舘寛治(NOVAのタケちゃん)が深浦加奈子さんと夫婦の役、と聞けば、それは観に行けば何かあるに違いないと思っていたが、期待に違 わぬ変態ぶりである。深浦さんの「ふふふ」笑いも、ほしのホールのようなひろ~い小屋よりも駅前の方が良い。いや、深浦さんに限らず、役者、駅前で観た方 が観やすかった。そういう演技なのか。

1時間53分の芝居ということだったが、すっきりと観れた。いや、正確にいうと、1時間40分経ったところで一度時計を見た。最後の15分は、ち と、話をまとめにいった感じもして、もしかすると、深浦・古舘・石橋三者会談のシーンで終わっちゃってもよかったのかもしれない、とは思ったが。

そういえば、前回も妙に話を畳みにいっていたのが気になったこと、冒頭の入り方のあざとさに「やられた!」と思ったことなどを思い出す。

このテの変態噺では、(怪談とかそういうものでなければ)、妙に噺を落としたり畳んだりする必要は無いと思うのだが、どうか。巧くまとめないまま で観客を劇場の外にほっぽり出しても充分許される水準の役者と変態さとは備わっていたと思う。次、観るかどうか。小屋と客演の役者次第かも。

2008年2月3日日曜日

飛ぶ劇場 あーさんと動物達の話

02/02/2008 ソワレ

力強い舞台、というのはこういうものを指して言うのかなぁ、と思いながら観ていた。
38歳無職引きこもり、金には不自由せず、という人間を巡って、セロ引きのゴーシュと岡田利規いうところの歴史の一番の先端とさだまさしライブが渾然一体となって物語を形作る。

実は、この「物語」を飽きずに見れた一つの大きな要因は、この芝居が北九州弁で綴られていることで、それなら任せろ、なんせ小生の弟は主宰の泊氏と同じ高校、歳は二つ違い。かどつかさ高校にもおおさと高校にも僕の小学校の時の友達は山ほど行っている。

もう1つは、38歳という年齢設定かな。僕が入っていきやすい年齢。かつ、「あの時こういう展開になっていたら」という自分史のればたらが、かなり自分として移入しやすいものではあった。

更に挙げるとすると、おそらくアゴラで初めて見た回転舞台。こんな大掛かりな舞台の仕掛けは、代引真という舞台監督がいた昔の青年団ではよく観たけれど、最近はご無沙汰していたもの。

という、3つの要因があったとしても、だ。引き込まれたなぁ。

なぜか、「たまねぎ!」の台詞をきっかけに涙がでてきて止まらなくなった。
なぜ「たまねぎ」だったのか、それは、今思い返しても全く説明がつかず、ひょっとするとその「たまねぎ」という言葉が刺激臭となりかわって僕の眼に飛び込み、どうにも生理的現象としてしか説明の仕様が無い涙を引き起こしたのかもしれないが、
とにかく、「たまねぎ」だった。

地に足の着いた、嫌味のない、周りも全部見えている上でこういう芝居に立ち位置を見出すスタンスがすばらしい。
ひょっとしたら「ありきたり」な話なのかもしれない。でも、数あるこういうありきたりの話の中で、セロ引きのゴーシュの詩と「歴史の一突端」としての自分とさだまさしライブを一緒に押し出せる芝居って、そんなには無いとも思う。

青年団 革命日記

02/02/2008 マチネ

若手公演とはいいながら、役者の力量は「若手」で済ませることの出来ないほどで、昨年末から「火宅か修羅か」「隣にいても一人」「革命日記」と飛ばし続ける青年団の俳優の層の厚さに、今更のように驚く。

飛行場の管制塔と大使館の同時占拠。それが革命の口火となること。人々の間に革命への息吹を吹き込むこと。
そんなバカみたいなことを真剣に考えている人たちの話なのだが、でも、ついぞ20年前にはそういうことをリアルなものだと思っている人たちを実際 に目の当たりにしたことがあるし、つい10年ちょっと前には、そういうバカな人たち(路線は違うが)のために東京の地下鉄で命を落とした人がたくさんいた のだ。1970年代には、きっと、この「革命日記」で発せられる日本語も、もっとリアルなものとして体感され、共有されていたのではないか、という気もす る。

そういう日本語を、青年団「若手」の身体から受け取ることが出来るのは幸せな体験だった。

ただし、この芝居で前面に出てくる構造としての滑稽さは、観客からみると、ひょっとすると「遠い話」に見えちまわないか、と危惧した。「一般市 民」との接点や、「てめえの暮らしさえ変えられないやつが国の心配してどおするねん」というのは、一歩間違えるとティピカルな対比(と、それによるスパイ シーな味付け効果)だけとして捉えられる危険を冒している気がする。
だから、「海よりも長い夜」の方が、完成度の高い戯曲として位置づけられるのだろう。

青年団若手役者ショーケースという意味では、100点満点で150点。満喫した。青年団には珍しく、ジャズのビッグバンドで一人ひとりソロをとっ て魅せてくれた、という感じ。でも、その分、どうでもよいくらいにびみょーーーなアンサンブルを必ずしも要求しない戯曲になってた気がする。やろうと思え ばできる役者たちだったのに。なんでだろう?