2006年11月26日日曜日

追悼 アニタ・オデイ

映画「真夏の夜のジャズ」で観たアニタ・オデイは、何とも金持ちで余裕があっておしゃれなアメリカのキレイな女性の代表選手だった。
羽飾りのついた黒いドレスで、海風を気にしてか軽く帽子を押さえながら歌う彼女は、高校生の僕に溜息をつかせるに十分な、そうだ、「ゴージャスな」女性歌手だったのです。

その後も"This is Anita" "Sings the Winners" を愛聴。
2,3年前にロンドンに来た時に聴きに行かなかったのが悔やまれます。

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=121614&media_id=20

山の手事情社 青い鳥

阿佐ヶ谷スパイダースが伸びやかに育った物語を提示するとすれば、山の手事情社の青い鳥は、畸形一歩手前の、苦しく折れ曲がった世界を突きつける。

銀座線以来の山の手事情社ですが、うーむ。
ここまで厳しい芝居をやっているとは。
当日パンフにある、安田さんのメーテルリンクの解釈は、それはそれで説得力があって、
しかし、それはやはり、メーテルリンクがコドモ劇として書いたものを安田さんの考える水準まで引き上げて演じるのは、またそれも厳しいのではないかと...

多分ファウストは観ない。が、安田さんのテクストを演じる公演があれば、それは観に行くだろう。

この苦しさをもって表現しなければならない世界とは一体何か?窮屈に身を屈めながら是非また観てみたいのです。

2006年11月25日土曜日

阿佐ヶ谷スパイダース イヌの日

初めて観ましたが、何でこんなに人気があるのか、とってもよく分かった。

伸びやかで、すっきりと、変な思い込みも、変な自己否定も無く、骨太な物語を力強く観客に提示していく。
過激な様でいて実は「芝居」の伝統のツボを押さえた展開にも、全く嫌味がない。

2時間50分近く、休憩なしの芝居を、飽きさせずに最後まで力強く引っ張っていく力量は、これはすごい。

そう、この伸びやかな匂いは、日本の小劇場で見つけるのは難しかった気がする。むしろこれは、ロンドンのストレートプレイの匂いだ。
あの、「本場」英国の、骨太な物語をあくまで骨太に、拗ねることなくケレンに走ることも無く、力のある役者が真っ直ぐに見せていく、そういう匂い。

日経の劇評はラストが気に召さなかったらしいが、何の何の。古今東西、骨太のお化け話はこうやって終わると相場が決まっている。僕はConor McPhersonのShining City を思い出してニヤリとしたね。

日本の「小劇場」でこんな芝居を観るのは、あたかも、日本の女の子の体型が西洋人に近づいてきたのに似る。昔はアメリカ西海岸のビキニの女性の伸 びやかな肢体は日本では見るべくもなく、「出かけていって見る(眺める)」ものだったが、今時の若い子には何だか負けてない人も多い、という意味で。

久々の本多で、舞台が遠く感じたけれども、それは、それで良いのだ。だって、細かなところに拘って楽しむ芝居じゃないんだから。

で、そうした伸びやかな芝居や肢体を前にすると気後れしてしまう僕は、ちょっと肩をすくめて呟くのです。
「すっげえいい芝居だよね。オレには出来ないけど」。
それから三福林でメシ食って帰りました。

2006年11月19日日曜日

無機王 吉田鳥夫の未来

サミット伊東さんが前回出演してた「無機王」である。

記憶が一定時間経つと振り出しに戻る設定は、最近バカ売れして映画化もされたけれどあんまり面白くないセンチな小説、「博士の愛した数式」と同じ。

一旦巷で消費されちまったネタで芝居やるんだから、それは、頑張っているに違いない、と期待して行った。

結果、面白い芝居でした。

アンケートにも書いたが、印象に残ったのは、
・ 虎美、ウンコ座りするも、(オレと同様)足首堅いからか、かかとが浮いている。
・ 女子中学生、横倒しに倒れるときに足がピクピクしている。
・ タミアイ、卓袱台を引っかく音が聞こえる。しびれた。
・ 女子中学生、リップクリームが取れないように横向きでストローを使うと宣言し、堂々と、時間をかけて面を切る。これにもしびれにしびれた。
・ 洋、たじろぎ方が何とも言えない。虎美、卓袱台の下から洋を引っ張り出すとき、電気あんまをしなかったのが残念だ

うーん、オレは、一体何を観ていたのだろう?

でも、そういう細部に目が行くということは、全体の作りについて安心できていたということです。
贅沢を言えば、もっと鳥夫と保を観たかったんだけど。何だか、最初は鳥夫の話だったのに、書いているうちに周りの登場人物にすっごく情が移っちゃって、鳥夫・保が割りを食った印象あり。
割を食ったのは、鳥夫・保の他、喜一郎と海老子もそうですね。他の役者ほど遊びを与えられていなかった。
ああ、この芝居、2時間超えてもいいから、もっと沢山みたかったなぁ。

一つ難癖つけるとすると、「幸せいっぱいサザエさん風ファミリーで始め、ハッピーエンドで終える」トーンの決め方、かな?
もっと気持ちの悪いハッピーエンド、あるいは、希望の持てる悲しい大団円、もしかすると、何だかよくわかんない結末、というのもあったかも知れない。そういうことの出来る力のある劇団だと思いました。

ジャブジャブサーキット 歪みたがる隊列

昼の『鵺』のせいで余りにも考えすぎて頭に血が行っており、
夕飯を食ったらその血が一気に胃に降りて貧血でアブラ汗がダラダラ流れ、横になって休むまもなくそのまま開場になだれ込み、真っ青な顔で、
「2時間吐かずに芝居を観れるだろうか」
と人知れず心配しつつ眼を閉じていたら、芝居が始まってしまった。

ジャブジャブサーキットの方々、すみませんでした。次からは体調100%で来ますから。今回は大目に見てください。

と心の中で唱えていたのだが、1時間50分、あっという間に過ぎた。1時間位したところで体調もすっきり。

前半のどうしても説明台詞にならざるを得ないところを、はしぐち氏がよく支えた。
物語りも種明かしもきちんとあるのだけれど、やり過ぎない役者が押し付けがましくない。

終演後に初めてきちんと読めた当パンに、
「全速力で回避したつもりでも、気付けばじわじわとドラマが侵食してきます」
とある。まさにその通りで、多重人格を題材とした時点で、はせ氏は、メロドラマへ真っ逆様のクレバスを避けながら、時速100KMを超えるスピードで滑降し続ける、芝居界の三浦雄一郎とならざるを得なかった。

その場にお付き合いすることを許していただいたことは、一種嬉しい体験でした。

2006年11月16日木曜日

シアタートラム 鵺

二日酔いを引き摺っての観戦。

いきなり、役者陣の芝居芝居したセリフや面切り百連発に戸惑う。なぜ、宮沢さんはそんな演技を役者にさせるのだろう?

劇中劇に清水邦夫さんの戯曲が引っ張ってこられて、それらの台詞が、今、21世紀の東京でリアリティを持つのはすごく大変だな、と思う。
なぜ、宮沢さんは、わざわざそんなものを舞台に載せるのだろう?

半分を過ぎたところで、役者が、
「長ゼリって、一体誰に向かって話してるんだろうね?」
「芝居の中の音楽って、どこで鳴ってるの?」
と、今更ながらの突込みを入れる。
演出家役の上杉氏、「お前らのそういう賢いところが気持ち悪い」と言う。
なぜ、そんな自己完結したやり取りをわざわざ舞台上で説明するのだろう?

なんてことを、二日酔いの頭で考えながら観ていた。
で、この芝居の観方として成り立ちうる幾つかの類型。

① 遠く日本を離れた異郷で、時空を超えた友情がよみがえる。現代のお化け話、おとぎ話。ちょっといい話。

② Velvet Goldmine が変節しちまったDavid Bowie の大断罪映画だとすれば(くわしくは本田透氏のこのコラムを参照
http://ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/hondat/view/vg.htm)、
これは、70年代以降大先生になっちまった蜷川幸雄氏の大断罪芝居である(日経の劇評パターン)

③ この芝居は、かつての時代の空気にあってはリアリティを持ちえた戯曲の言葉が、いまや時代とのリンクを失いつつある、その働きを鵺に例え、日本の芝居人の来し方行く末を見つめなおそうとする試みである(当日パンフそのまま)

④ この芝居は、全篇、1演出家の妄想の世界である。或いは、昔日のアングラスターの死の直前の、一瞬現れて消える妄想の世界である。そのどちらか(2つの妄想が交錯して現れたものではない)。
妄想の中で「現実」とみなされる人の動き、話し方は、「演出家(本当は役者かもしれないが、以下、演出家で統一)」が世界とコネクションを試みる中での現実なので、演出家が外界に求めるようにしかならない。すなわち、芝居がかっている。
その態度が本当の現実世界との中でリアリティを持ちえず演出家が苦しむのと同様に、清水邦夫の戯曲の言葉もまたもがき苦しむ。
シアタートラムに居る観客は、そのなんとも苦痛に満ちた、しかも決して解決されることの無い苦痛を、妄想を観るもう一人の演出家自身として体験する、という構造。
・ハンディカムで記録をとり続ける男は、妄想の登場人物達が自分達が現実であることを殊更に強調するための道具たてである。テープを入れ替える 間、彼らが演技をやめるのは、「全く最近の連中はいつもカメラ目線で困る」ということを匂わせるためではなく「役者たちの振る舞いが何らかのフレームに収 まっていることを示唆する仕掛け」として使われている。
・役者たちの自分突っ込みは、妄想・夢の中の「これは夢だかんね」という自分説明の代用として使われている。
→ 1人の男の非常に特殊な妄想のありようの中で、この男の外界の捉え方のメソドロジーをとことん剥ぎ取ったところで、この芝居のリアリティが普遍として観客に迫ってくる仕掛け。

僕は、途中、④の観方に辿り着いたところで、最初の3つの疑問(本当はもっと色々あったが)が解けて、この芝居を楽に観れるようになりました。それまでは、色んな疑心暗鬼が渦巻いて、大変だった。

観終わって、とても満腹感がありました。言い方を変えれば、疲れた。とてもよく考えられている芝居。頭を使う芝居。

でも、少なくともこの芝居は、あんまりエンターテイニングには受け取られないのではないだろうか。
まぁ、読み返してみると、かなり僕の観方もひねくれまくってますが。個人的にはこう読み解かないと納得いかなかったです。

2006年11月15日水曜日

富士山が見える

朝、起きて出かけるとき、ドアを開けた真正面に富士山が見えます。
何と、引っ越してきて半年にして初めて気が付いた。

オフィスの窓から、やはり富士山が見えます。
今日は南アルプスも見えたらしい(僕は見逃した)。

やっぱり、富士山はいいのぉ。
昔は十条の小学校の屋上から見えた、ような記憶があるが、今じゃ背が低すぎて見えないでしょう。

日本に居て本当によかった、と思う数少ない機会の1つです。