27/02/2018 北千住BUoY
東京から何年か離れていて戻ってくると、街の中の情報量が多すぎて気持ち悪くなることがある。
例えば、電車の車内広告。
電車に乗る最初の何回かはそれらを「意味を持つ情報」として認識せずにスルーして、ただ、原色の色んなものが電車の車内に貼ってあるだけ、のように見える。
それが、何回か電車に乗ってると、どこかの瞬間で、いきなり大量の情報として、取捨選択を許さない情報の束として飛び込んできて、気持ち悪くなる。
そのうち情報の洪水にも慣れて、自分のプライオリティに即して処理できるようになってくる(僕はそうなった)。
コンテクストを与えられないもの、コンテクストの枠外にあるものは僕にとって意味を持たないので、スルーできるんだけれど、
自分がコンテクストに乗っかったり、言葉や色がコンテクストを持って提示されたりする瞬間に「意味」を持って入ってくる。
てなことを、篠田千明の"Zoo"を観に行ってからずっと、頭の中で反芻している。
実は、観に行く前は「この出し物、面白くないんではなかろうか」心配していた。というのも、
宣伝文句に「世にも珍しいヒト、という生き物を見るために集まってくる」とあって、
もしそれが「観る側と観られる側の逆転」とかそんな陳腐な見世物だったら、それには興味が持てないなー、と思っていたから。
が、実際は、篠田は「動物園」という戯曲の枠組みだけ借りてきて、口の悪いいい方をすると、「事前の売りやすいフレームの一つ」として使うことに決めて、で、
そのフレームに乗っかって、全然違うことをしているな、という印象だった。
会場に入って色んなものを見たり聞いたりする中では、「観る・観られる」関係よりもむしろ、聴覚の方が先に刺激される。
聴覚のアンテナのスイッチが入るきっかけは、いくつか会場内に準備してくれてあって、それは例えば、
a. 冒頭客入れ、サルは、意味から切り離した音を、画面で追いながら発声するように求められていること。それが壁に投影された絵で推測できること
b. 浴槽の縁に置かれた音出しスイッチのタイトル。「ドライヤー」みたいなノイズだけでなく、「セブンイレブン」「コンビニ」「ファミマ」といったタイトルもついていること
c. ドイツ人話者が話す「状況は完全にコントロールされています」の台詞が、ドイツ語・日本語・英語と、順繰りに言語をまたいで繰り返されるうちに、意味から切り離されて、面白い音を探る素材として取り扱われていくこと
自分の聴覚のスイッチが入ったのは、もったいないことに、後半のc. の場面で、そこで初めて、
自分の聴覚を調整しながら、意味の聞き取りと、無意味な音の聞き取りを行ったり来たりできるんじゃない? と思い始めた。
で、そこから逆算すると、既に冒頭からa. の仕掛けを提示されていたわけだし、
そういえば、b.にしても、上演の前半、スイッチのタイトルを見る前には「ただのノイズ」だったものが、タイトルを見てコンテクストの枠がはまってからは「意味を持つ音」として、少なくとも僕には聞こえてきていた。
そうした、意味と無意味の間、コンテクストの枠の内と外を、会場内を遊覧しながらゆらゆら愉しむ、というのが、もうちょっと早い段階でできていればなあ、と悔やまれた。
と、そんなことを考えてるうちに、あ!
視覚のコンテクストも、実は相当程度会場内で示されていたなあ、ということにも気づく。
例えば「ペンギンのマーチ」。
あれ、事前に動物園のビデオ見せて、場内放送流して、観客をコンテクストにはめてなかったら、ただの変な動きしてる人間じゃないか。
コンテクストがあってこその「ペンギンのマーチ」だったのか。
やられた。
あ。とすると、あの、ダンボール製のVRかけて動いてたのは、「VRのコンテクスト」の殻を被って動いてたってことか。
福原冠のサルは、「コンテクストを剥ぎ取られて、VR機器からの情報をただ追いかけることに集中している」から、人間じゃなくて、サルなのか。
視覚についても、実は、コンテクストの内と外を回遊する機会が、観客には与えられていた、ということで、
それに気がつかなかったことを今更悔やんでも後の祭りである。
後の祭りと言えば、何年か前の森下スタジオの「機劇」でも、デッサン会のコンテクストにばっちり嵌められたのを忘れていたか。
忘れてました。またもやすっかり嵌められた。
で、それに気がつきかけたところで終幕、福原冠の長台詞となって、
「この、VR外して一気に観客の目の前に出てきた福原氏の表情は、電車広告に囲まれて呆然とするオレじゃないか?」
みたいなことを考えていたら、ゴメン、台詞の中身全部聞き逃した。
もったいない。
もったいないから、再演してほしい。
今回のように、観た直後はこんな風に整理できてなくて、「なんだか難しいよ」と思って、それから何週間も、仕掛けのリバースエンジニアリングするのも、それはそれで楽しいんだけど、
それを理解した上で、さらにエンターテイニングな作品だったんじゃん、って、思いながら観られたらいいな、って思っているんだ。
って書いて、当日パンフ読み返したら、げげっ、まんまのことが当日パンフに書いてあるじゃん。
あーあ、オレ、ほんと、ダッセえなあ。上演の意図の答え合わせして悦に入ってるんじゃねーよ、って思ったけれど、
書いちゃったから晒します。
だから、ぜひ再演お願いします。
2017年4月26日水曜日
Who's Afraid of Virginia Woolf?
11/04/2017 19:30 @Harold Pinter
昨年なくなったエドワード・オルビー先生の有名戯曲「バージニア・ウルフなんてこわくない」を、Imelda Stauntonと(Game of Thronesでも有名な、でも筆者はMcPhersonのSeafarerでの演技が印象深かった)Conleth Hillで。
これまで、舞台でも映画でも未見だったのだが、各紙劇評でも素晴らしいとのことだったので当日券で。いやはや、本当に素晴らしかった。
オルビー先生が1960年代にこの戯曲を書いていたこと自体が既に素晴らしい。すぐれて現代にも通じる二組の夫婦のお話。
物事のよく分かった物知りさんによれば、これは、「二組の夫婦のあいだのエスカレートしていく罵り合いを通じて夫婦の偽善的な関係が暴きだされていくさまを描いた作品」らしいのだが、
筆者にはそういう風には見えなくて、
「いやいやいや、あの中年夫婦は罵り合ったり浮気したりさせたりしながら、偽善的に・偽悪的に、折り合いをつけて、仲良く生きているんです。過去も、多分これからも。
若い夫婦も、これからずっと、借りを作ったり作られたり、嘘ついたりつかれたりしながら、偽善的に・偽悪的に、折り合いをつけて、生きていくんです。
観客の皆さんも、それ、よーく分かってますよね。
くっさいドラマみたいに、幸せ夫婦が突如不幸のどん底に、とか、普通はないから。みーんな、程度の差こそあれ、こんな風にえっちらおっちら生きてくんだよね」
っていう、面白くも何ともない(でも激しくキッツい)現実を突きつけられているようにしか思えなかったのだ。
そういう、まさに、現代日本においてであれば深田晃司が映画にしているようなネタを、オルビー先生が50年前に戯曲にしていたというのが驚きだったんだ。
そうです。似たような話、「淵に立つ」で、深田監督が昨年カンヌで賞を取っている。
なんせ「淵に立つ」の宣伝文句が、「あの男が現れるまで、私たちは家族だった」である。
「バージニア・ウルフなんてこわくない」の宣伝文句は、「あの夫婦が現れるまで、私たちは家族だった」だったのに違いない。
両作品とも、現代の家族の折り合いの付け方を厳しく突きつめるという点で、キッツいのだけれど、でも、作品の結末は、必ずしも人生の終わりや夫婦の終わりではなくて、実は、始まりである。それも、「新しい希望への始まり」ではなくて、どん底の底へと落ちていくでもなく、希望の光が一条差すでもなく、まあ、折り合いをつけてやっていきましょう、という、現在地を確認したうえでの、「また始まるのかよ」っていう始まりなのである。しょうがねーなー。
そのやるせなさとキツさ、一方で、人間、結局そういう状況に折り合いつけちゃうんだよね、という切なさを、Staunton/Hillコンビが余計な色をつけずに演じきって、大満足な結果に。
最初の登場からガツーンとギアをトップに入れて、グイッと観客を引き込む手管。Stauntonの剛を柔でかわして自分のペースに持って行くHillだが、いやいや、そのリズムには愛が感じられて、こりゃ一筋縄で腑分けできない夫婦関係がそこにあるのだな、と思わせる。ウェストエンドの、ある程度年齢層の高い観客を相手にして、「分かり易さに走らない」演出とその意図をくんだ役者陣。本当に素晴らしいプロダクションだった。
昨年なくなったエドワード・オルビー先生の有名戯曲「バージニア・ウルフなんてこわくない」を、Imelda Stauntonと(Game of Thronesでも有名な、でも筆者はMcPhersonのSeafarerでの演技が印象深かった)Conleth Hillで。
これまで、舞台でも映画でも未見だったのだが、各紙劇評でも素晴らしいとのことだったので当日券で。いやはや、本当に素晴らしかった。
オルビー先生が1960年代にこの戯曲を書いていたこと自体が既に素晴らしい。すぐれて現代にも通じる二組の夫婦のお話。
物事のよく分かった物知りさんによれば、これは、「二組の夫婦のあいだのエスカレートしていく罵り合いを通じて夫婦の偽善的な関係が暴きだされていくさまを描いた作品」らしいのだが、
筆者にはそういう風には見えなくて、
「いやいやいや、あの中年夫婦は罵り合ったり浮気したりさせたりしながら、偽善的に・偽悪的に、折り合いをつけて、仲良く生きているんです。過去も、多分これからも。
若い夫婦も、これからずっと、借りを作ったり作られたり、嘘ついたりつかれたりしながら、偽善的に・偽悪的に、折り合いをつけて、生きていくんです。
観客の皆さんも、それ、よーく分かってますよね。
くっさいドラマみたいに、幸せ夫婦が突如不幸のどん底に、とか、普通はないから。みーんな、程度の差こそあれ、こんな風にえっちらおっちら生きてくんだよね」
っていう、面白くも何ともない(でも激しくキッツい)現実を突きつけられているようにしか思えなかったのだ。
そういう、まさに、現代日本においてであれば深田晃司が映画にしているようなネタを、オルビー先生が50年前に戯曲にしていたというのが驚きだったんだ。
そうです。似たような話、「淵に立つ」で、深田監督が昨年カンヌで賞を取っている。
なんせ「淵に立つ」の宣伝文句が、「あの男が現れるまで、私たちは家族だった」である。
「バージニア・ウルフなんてこわくない」の宣伝文句は、「あの夫婦が現れるまで、私たちは家族だった」だったのに違いない。
両作品とも、現代の家族の折り合いの付け方を厳しく突きつめるという点で、キッツいのだけれど、でも、作品の結末は、必ずしも人生の終わりや夫婦の終わりではなくて、実は、始まりである。それも、「新しい希望への始まり」ではなくて、どん底の底へと落ちていくでもなく、希望の光が一条差すでもなく、まあ、折り合いをつけてやっていきましょう、という、現在地を確認したうえでの、「また始まるのかよ」っていう始まりなのである。しょうがねーなー。
そのやるせなさとキツさ、一方で、人間、結局そういう状況に折り合いつけちゃうんだよね、という切なさを、Staunton/Hillコンビが余計な色をつけずに演じきって、大満足な結果に。
最初の登場からガツーンとギアをトップに入れて、グイッと観客を引き込む手管。Stauntonの剛を柔でかわして自分のペースに持って行くHillだが、いやいや、そのリズムには愛が感じられて、こりゃ一筋縄で腑分けできない夫婦関係がそこにあるのだな、と思わせる。ウェストエンドの、ある程度年齢層の高い観客を相手にして、「分かり易さに走らない」演出とその意図をくんだ役者陣。本当に素晴らしいプロダクションだった。
2017年4月25日火曜日
Travesties
05/04/2017 19:30 @Apollo
始まった途端に嫌な予感がする、あるいは、しまった、と思う芝居に出くわすことがある。今回がそうだった。
トム・ストッパードによる1974年の戯曲は、1917年のウィーンを舞台に、その街にいた(史実としては正しい)レーニンとトリスタン・ツァラとジョイスが、実は変なところ(この戯曲では市内の図書館)で鉢合わせていたら、あるいは、変なところで微妙にすれ違っていたら、という話である。それを、狂言回しとして配置された、これまた実在の、史実としては当時確かにウィーンに駐在していた英国外交官の記憶として「語らせる」という趣向。
タイトルの"Travesty"っていうのは「滑稽化」「こじつけ」「曲解」という意味だから、そもそもストッパード自身が「これはこじつけですから、真に受けないで下さいね」と言っているのか、それとも主人公の外交官の「捩じ曲がった記憶」を使ったメタな芝居なのか。
いずれにしても。冒頭出てくる外交官の老いた姿の演技を観て「こりゃいかん」となった。
「所詮パロディーなのだから、あるいは一人の老人の記憶の中で登場人物が踊っているだけなのだから、そういう風にぺらっぺらに行きましょう!」
ということかも知れないが、もしかすると、
「話しがあちこち飛び回る戯曲であるので、ある程度分かり易くしないと観客がついて来れなくなってしまうかも知れませんね」
という気遣いなのかも知れないが、いずれにせよ、如何せん演技が観客に媚びて、段取りこなしているようにしか見えない。
「内面の演技どうこう」という気は無いのだけれど、いや、そこまで観客の方を向いて演技しなくても良いじゃないですか、と思ってしまう。
この芝居、昨年Menier Chocolate Factory史上最高の興行成績を上げて後にウェストエンドに移ってきたというのだけれど、うーん、どうしたものか。
始まった途端に嫌な予感がする、あるいは、しまった、と思う芝居に出くわすことがある。今回がそうだった。
トム・ストッパードによる1974年の戯曲は、1917年のウィーンを舞台に、その街にいた(史実としては正しい)レーニンとトリスタン・ツァラとジョイスが、実は変なところ(この戯曲では市内の図書館)で鉢合わせていたら、あるいは、変なところで微妙にすれ違っていたら、という話である。それを、狂言回しとして配置された、これまた実在の、史実としては当時確かにウィーンに駐在していた英国外交官の記憶として「語らせる」という趣向。
タイトルの"Travesty"っていうのは「滑稽化」「こじつけ」「曲解」という意味だから、そもそもストッパード自身が「これはこじつけですから、真に受けないで下さいね」と言っているのか、それとも主人公の外交官の「捩じ曲がった記憶」を使ったメタな芝居なのか。
いずれにしても。冒頭出てくる外交官の老いた姿の演技を観て「こりゃいかん」となった。
「所詮パロディーなのだから、あるいは一人の老人の記憶の中で登場人物が踊っているだけなのだから、そういう風にぺらっぺらに行きましょう!」
ということかも知れないが、もしかすると、
「話しがあちこち飛び回る戯曲であるので、ある程度分かり易くしないと観客がついて来れなくなってしまうかも知れませんね」
という気遣いなのかも知れないが、いずれにせよ、如何せん演技が観客に媚びて、段取りこなしているようにしか見えない。
「内面の演技どうこう」という気は無いのだけれど、いや、そこまで観客の方を向いて演技しなくても良いじゃないですか、と思ってしまう。
この芝居、昨年Menier Chocolate Factory史上最高の興行成績を上げて後にウェストエンドに移ってきたというのだけれど、うーん、どうしたものか。
2017年4月24日月曜日
Mark Thomas - Predictable (Work in Progress)
08/04/2017 19:30 @The Hen and Chickens
自他共に認める左翼アクティビスト芸人Mark Thomasが贈る最新企画は、観客と一緒に近未来を予測して(2ヶ月後と4年後)、その場で意見が纏まったら、その結果を賭屋に持って行って、一人1ポンドずつ(観客50人で50ポンド)賭けてみようぜ!という趣向である。
タイトルにあった"Work in Progress"というのは、まさにこの回がお試しバージョンだからで、Thomas自身、開演早々、「今日のお客さんはギニーピッグだからよろしく!」「まあ、オレにも一体全体これが上手くいくかどうかは分かんないよ!」って言ってたぐらいなので、そのドキドキ感は、まず、買い。
「まぁ、この回が上手くいかなくって、その後質が上がってLeicester Square辺りで上演することになったら、オレにメールしろや。自分の観た回は面白くなかったが、その礎の上にウェストエンド公演が成り立ってんだろ。招待券の一枚でも出せよ。って。まぁ、そんなメールオレに送ったところで、オレが応えてあげる保証はないけどね。ガハハ!」と、こんな感じである。
開場前に集めたアンケートに即してトークを進めていくのだけれど、流石Thomasのショーに集まってくるだけのことはあって、皆さん感覚が相当鋭い。
これから2ヶ月の間に、
・ トランプが宣戦布告する。実際には存在しない国に向かって。
・プーチンとトランプの情事が明らかになる。
なかなかどうして、皆様、硬派なわけです。そして、おもろネタを提出した人には、舞台上のThomasから、「それってどういうこと? これ書いたやつ、だれだよ!」という、遠慮仮借の無い突っ込みが入って、盛り上がる。
4年後予測は、
・ ナイジェル・ファラージュが総選挙に出馬して、100票も入らずに落選。
・ UKがメートル法を廃止。マイル法に先祖返り。
・ スコットランド独立。
これまた激しいなぁ、なんて他人事のように楽しんでいたら、
何と筆者の書いた4年後予測にThomasが「これ書いたの誰だよ?」筆者しどろもどろであった。
しかし、そこで筆者の話にきちんと耳を傾けてくれたThomasは、口は悪いがとっても優しいナイスガイオヤジだったよ。多謝!
60分、あっという間に過ぎた。これはまた、Leicester Square辺りで観られるだろう。
自他共に認める左翼アクティビスト芸人Mark Thomasが贈る最新企画は、観客と一緒に近未来を予測して(2ヶ月後と4年後)、その場で意見が纏まったら、その結果を賭屋に持って行って、一人1ポンドずつ(観客50人で50ポンド)賭けてみようぜ!という趣向である。
タイトルにあった"Work in Progress"というのは、まさにこの回がお試しバージョンだからで、Thomas自身、開演早々、「今日のお客さんはギニーピッグだからよろしく!」「まあ、オレにも一体全体これが上手くいくかどうかは分かんないよ!」って言ってたぐらいなので、そのドキドキ感は、まず、買い。
「まぁ、この回が上手くいかなくって、その後質が上がってLeicester Square辺りで上演することになったら、オレにメールしろや。自分の観た回は面白くなかったが、その礎の上にウェストエンド公演が成り立ってんだろ。招待券の一枚でも出せよ。って。まぁ、そんなメールオレに送ったところで、オレが応えてあげる保証はないけどね。ガハハ!」と、こんな感じである。
開場前に集めたアンケートに即してトークを進めていくのだけれど、流石Thomasのショーに集まってくるだけのことはあって、皆さん感覚が相当鋭い。
これから2ヶ月の間に、
・ トランプが宣戦布告する。実際には存在しない国に向かって。
・プーチンとトランプの情事が明らかになる。
なかなかどうして、皆様、硬派なわけです。そして、おもろネタを提出した人には、舞台上のThomasから、「それってどういうこと? これ書いたやつ、だれだよ!」という、遠慮仮借の無い突っ込みが入って、盛り上がる。
4年後予測は、
・ ナイジェル・ファラージュが総選挙に出馬して、100票も入らずに落選。
・ UKがメートル法を廃止。マイル法に先祖返り。
・ スコットランド独立。
これまた激しいなぁ、なんて他人事のように楽しんでいたら、
何と筆者の書いた4年後予測にThomasが「これ書いたの誰だよ?」筆者しどろもどろであった。
しかし、そこで筆者の話にきちんと耳を傾けてくれたThomasは、口は悪いがとっても優しいナイスガイオヤジだったよ。多謝!
60分、あっという間に過ぎた。これはまた、Leicester Square辺りで観られるだろう。
2017年4月23日日曜日
Limehouse
08/04/2017 14:30 @Donmar Warehouse
1981年、左派が主流だった英国労働党の中で、中道左派に近い四人組が離党宣言、他の議員も合流して新党「社会民主党」を結成した。その結成記者会見の舞台となったロンドン東部にある(後に大々的に再開発されることになる)Limehouseにあったのが、その四人組の一人、David Owenの自宅だった。
日本に当てはめれば、新自由クラブとか、自由党とか、国民の生活がいちばんとか、そういう類いの新党結成の瞬間を、河野洋平や小沢一郎の自宅を舞台に想像してみる室内劇、ということになると思う。ただし、これは、「政治を題材にした芝居」ではあっても、「政治劇」ではない。
この、一幕もの1時間45分の室内劇は、首謀者であるDavid Owenが他の3人に声を掛けてから4人で記者会見へと向かう迄の動きを辿るのだが、そこにあるのは、政治的信条だけではない。各人の生まれ育ち、人生観、保身、好き嫌い、プライベート等々。そういうものを一緒くたに背負った個人が4人集まって、さて、一つの政党を旗揚げできるのだろうか、ということ。4人の駆け引き、口論、離反、思いの交錯、そういうものが凝縮されて、ぐっと見応えのある芝居だった、
と書きたいところなのだが、うーん、同じSteve Watersの一幕ものであっても、一昨年のTempleと比較すると若干歯応えに欠ける。
それは、冒頭の台詞"The Labour is fxxxed"が、現在世界中の左派・中道左派政党が置かれた状況を余りにもあざとく意識した台詞であるように思われて引いてしまったからかも知れないし(ちなみにもとの戯曲には、そんな台詞は、ない!)、Owen役のTom Goodman-Hillの演技が若干暑苦しくてうざったく(臭く?)感じられたからかも知れないし、5人の登場人物を均等に押し出そうとした分、一人ずつの掘り下げが十分でなかったからなのかも知れない(Templeは、焦点をセントポール寺院の主教に当てた分、却って芝居全体がグイッと立ち上がっていた印象がある)。
いずれにしても、Templeの、個人の葛藤からセントポール大聖堂の向こうに拡がる世界へと続く遠近法が力強く見事だったのと比べると、パンチに欠けることは否めない。
いや、しかし、それにしても、Bill Rodgers役のPaul Chahidiは抑えた演技で素晴らしかったし、Shirley Williams役のDebra Gillettはとてもカッコ良かったし、料理とワイン、食事を挟んで起きる駆け引きは、若干あざとさを感じさせるにせよ、マカロニの焼ける臭いまで動員して一幕もの室内劇の骨格を支えていた。上質の、観るに堪える室内劇であったことは間違いない。
それにしても、だ。1981年のUKの政治情勢なんて、筆者はほとんどついていけないのだけれど、しかし、周囲の観客の平均年齢(70歳は超えていたのではないか)の高さと、彼らの食いつきの良さったら! Atley、Wilson、Thatcher、その辺の実名に即時に反応できていたのは流石。裏を返すと、その反応の良さが、「政治情勢」と「個人の葛藤」を並べて、遠近法のダイナミクスで見せようとする試みの邪魔をしていた(政治諷刺としての取られ方が強くなってしまった)のかも知れないが。
1981年、左派が主流だった英国労働党の中で、中道左派に近い四人組が離党宣言、他の議員も合流して新党「社会民主党」を結成した。その結成記者会見の舞台となったロンドン東部にある(後に大々的に再開発されることになる)Limehouseにあったのが、その四人組の一人、David Owenの自宅だった。
日本に当てはめれば、新自由クラブとか、自由党とか、国民の生活がいちばんとか、そういう類いの新党結成の瞬間を、河野洋平や小沢一郎の自宅を舞台に想像してみる室内劇、ということになると思う。ただし、これは、「政治を題材にした芝居」ではあっても、「政治劇」ではない。
この、一幕もの1時間45分の室内劇は、首謀者であるDavid Owenが他の3人に声を掛けてから4人で記者会見へと向かう迄の動きを辿るのだが、そこにあるのは、政治的信条だけではない。各人の生まれ育ち、人生観、保身、好き嫌い、プライベート等々。そういうものを一緒くたに背負った個人が4人集まって、さて、一つの政党を旗揚げできるのだろうか、ということ。4人の駆け引き、口論、離反、思いの交錯、そういうものが凝縮されて、ぐっと見応えのある芝居だった、
と書きたいところなのだが、うーん、同じSteve Watersの一幕ものであっても、一昨年のTempleと比較すると若干歯応えに欠ける。
それは、冒頭の台詞"The Labour is fxxxed"が、現在世界中の左派・中道左派政党が置かれた状況を余りにもあざとく意識した台詞であるように思われて引いてしまったからかも知れないし(ちなみにもとの戯曲には、そんな台詞は、ない!)、Owen役のTom Goodman-Hillの演技が若干暑苦しくてうざったく(臭く?)感じられたからかも知れないし、5人の登場人物を均等に押し出そうとした分、一人ずつの掘り下げが十分でなかったからなのかも知れない(Templeは、焦点をセントポール寺院の主教に当てた分、却って芝居全体がグイッと立ち上がっていた印象がある)。
いずれにしても、Templeの、個人の葛藤からセントポール大聖堂の向こうに拡がる世界へと続く遠近法が力強く見事だったのと比べると、パンチに欠けることは否めない。
いや、しかし、それにしても、Bill Rodgers役のPaul Chahidiは抑えた演技で素晴らしかったし、Shirley Williams役のDebra Gillettはとてもカッコ良かったし、料理とワイン、食事を挟んで起きる駆け引きは、若干あざとさを感じさせるにせよ、マカロニの焼ける臭いまで動員して一幕もの室内劇の骨格を支えていた。上質の、観るに堪える室内劇であったことは間違いない。
それにしても、だ。1981年のUKの政治情勢なんて、筆者はほとんどついていけないのだけれど、しかし、周囲の観客の平均年齢(70歳は超えていたのではないか)の高さと、彼らの食いつきの良さったら! Atley、Wilson、Thatcher、その辺の実名に即時に反応できていたのは流石。裏を返すと、その反応の良さが、「政治情勢」と「個人の葛藤」を並べて、遠近法のダイナミクスで見せようとする試みの邪魔をしていた(政治諷刺としての取られ方が強くなってしまった)のかも知れないが。
Pirates of Penzance
25/03/2017 15:00 @Coliseum
ギルバート・サリバンのコンビの人気オペレッタをENOで。オペラと言うには軽いかな。ヴィクトリア時代の作品をミュージカルと言うのもちょっと。ということでオペレッタ。
3階席、周囲は小さな子供を連れた親子連れ、孫を連れたお年寄り、お年寄り同士、等々、観客席の雰囲気も堅苦しい「オペラ」ではない。
筆者にとっては2000年のOpen Airでのプロダクションが、この「ペンザンスの海賊」の初見で、その時は、ただただおバカでご都合主義なプロットと、警官隊の剽軽な行進だけが印象に残っていて、肝心の音楽や歌はあんまり覚えていない。ギルバート・サリバンのオペレッタと言えば筆者は「ミカド」にとどめを刺して、あの、突飛なシーンでの超絶美しいメロディ群にはとても及ばないのでは、と思っていたのだが・・・
やはり一幕目はどうしてもピンと来ず。後半の「タラッタラーン」まで辿り着いたところで、ようやっとノれた感あり。大団円に掛けての盛り上げ方はさすがだけれども、うーん、前半からこれ位ぶっ飛ばしてくれていたらなあ、とどうしても思ってしまった。
しかしまあ、作品毎の差はどうしてもあるとはいえ、観ていて楽しめる作品であることは確かで、ヴィクトリア時代のドリフは100年経ってもやっぱり家族みんなで楽しめちゃうわけである。それは、とても喜ばしいことなのだ。だから、インパクト不足、美メロディー不足を恨む気持ちはさらさら無い。ま、敢えてギルバート・サリバンを観るなら、まず、ミカドから。とだけは申し上げたいですが。
ギルバート・サリバンのコンビの人気オペレッタをENOで。オペラと言うには軽いかな。ヴィクトリア時代の作品をミュージカルと言うのもちょっと。ということでオペレッタ。
3階席、周囲は小さな子供を連れた親子連れ、孫を連れたお年寄り、お年寄り同士、等々、観客席の雰囲気も堅苦しい「オペラ」ではない。
筆者にとっては2000年のOpen Airでのプロダクションが、この「ペンザンスの海賊」の初見で、その時は、ただただおバカでご都合主義なプロットと、警官隊の剽軽な行進だけが印象に残っていて、肝心の音楽や歌はあんまり覚えていない。ギルバート・サリバンのオペレッタと言えば筆者は「ミカド」にとどめを刺して、あの、突飛なシーンでの超絶美しいメロディ群にはとても及ばないのでは、と思っていたのだが・・・
やはり一幕目はどうしてもピンと来ず。後半の「タラッタラーン」まで辿り着いたところで、ようやっとノれた感あり。大団円に掛けての盛り上げ方はさすがだけれども、うーん、前半からこれ位ぶっ飛ばしてくれていたらなあ、とどうしても思ってしまった。
しかしまあ、作品毎の差はどうしてもあるとはいえ、観ていて楽しめる作品であることは確かで、ヴィクトリア時代のドリフは100年経ってもやっぱり家族みんなで楽しめちゃうわけである。それは、とても喜ばしいことなのだ。だから、インパクト不足、美メロディー不足を恨む気持ちはさらさら無い。ま、敢えてギルバート・サリバンを観るなら、まず、ミカドから。とだけは申し上げたいですが。
2017年4月22日土曜日
Wish List
04/02/2017 15:00 @Royal Court Theatre, Upstairs
若手劇作家にコミッションを出して新作上演の機会を与え、次世代の劇作家を育てる方針を売りにしているRoyal Court。
今回観に行ったのはKatherine Soperによる"Wish List"。
Soperは20代半ば、ケンブリッジ出身の新進劇作家で、この"Wish List"はマンチェスターのRoyal Exchangeとの共同制作作品。
2015年に賞を取り、2016年にマンチェスターで初演。今回のロンドン公演に至っている。
メディアのレビューでは、
「引きこもりの弟と、バイトで自分と弟の生活費をかつかつ稼ぐ姉、それを取り巻く人々の、心の交流を描く作品」
とあって、ちょっと心配してたんである。ありきたりのハートウォーミングストーリー? 社会告発アジ芝居?
心配無用だった。余計な自己主張をしない、けれんのない、極々質素な造りの作品の中には、筆者が芝居小屋で観たいものがたくさん詰まっていた。
この芝居で筆者が最も美しいと感じたシーンの一つは、姉が職場の同僚とパブで話しているときに、不意に、堰を切ったように天文学についての情熱が噴き出す場面。渇いた日常の中から不意に驚くべき色彩が飛び出してくる瞬間は、筆者が劇場に行きたいと思う理由の中で最も重要なものの一つで、筆者は、この先何年経とうと、繰り返し、あの、突如きらめきを顕すまばゆい光を思い起こすだろう。
それを聞く同僚は、家族との葛藤を抱えつつも、如才なく、自分の行きたい方向へと環境をマネージできる人間として描かれている。その意味で彼はティピカルには「劇的」ではないのだけれど、実は、「劇的でない人」が舞台に乗っているということはとても大事で、同僚役の若い役者は、その役割を十二分に理解した、素晴らしい演技を見せる。
一方で、引きこもりの弟である。髪型にとりつかれて社会へのとりつくしまを無くしてしまったように思われる弟ではあるけれども、彼の周囲の、とっちらかった原色の絵の具が生硬にぶちまけられたような暮らしの中から、ラスト、すーっと、白色光が一筋差し込んで、空間が凪ぐ。それもとても美しかった。思わせぶりの感動的な台詞や音楽や後光が一切無かったのも好もしかった。希望というものが目に見える瞬間があるとすると、それは、思わせぶりの中にではなく、目を凝らさないと一瞬で消えてしまう一筋の光の中にある。その瞬間をきちんと舞台に載せてくれた作者・演出・スタッフ・役者に、心から感謝する。
ついでに言うと、この、「裂け目」と「日常」の行ったり来たりは、実は同じ日に同じ劇場の別の階で上演されていたCaryl ChurchillのEscaped Aloneでは、もっと直截に、暴力的に提示されていて、かつ、素晴らしい芝居で、だから、この日、この二つの芝居が同時に上演されていたRoyal Courtは、またとないほど幸福な時間を迎えていたはずで、そこに居合わせた筆者もとても幸福なときに居合わせた、ということになる。それは、芝居がはねた後にバーで水を飲んでいたSoperが、「あ、Carylが帰っていくよ!」と、その偉大な劇作家の後ろ姿を指して言ったときにも、ちょっとだけ感じたことではある。
若手劇作家にコミッションを出して新作上演の機会を与え、次世代の劇作家を育てる方針を売りにしているRoyal Court。
今回観に行ったのはKatherine Soperによる"Wish List"。
Soperは20代半ば、ケンブリッジ出身の新進劇作家で、この"Wish List"はマンチェスターのRoyal Exchangeとの共同制作作品。
2015年に賞を取り、2016年にマンチェスターで初演。今回のロンドン公演に至っている。
メディアのレビューでは、
「引きこもりの弟と、バイトで自分と弟の生活費をかつかつ稼ぐ姉、それを取り巻く人々の、心の交流を描く作品」
とあって、ちょっと心配してたんである。ありきたりのハートウォーミングストーリー? 社会告発アジ芝居?
心配無用だった。余計な自己主張をしない、けれんのない、極々質素な造りの作品の中には、筆者が芝居小屋で観たいものがたくさん詰まっていた。
この芝居で筆者が最も美しいと感じたシーンの一つは、姉が職場の同僚とパブで話しているときに、不意に、堰を切ったように天文学についての情熱が噴き出す場面。渇いた日常の中から不意に驚くべき色彩が飛び出してくる瞬間は、筆者が劇場に行きたいと思う理由の中で最も重要なものの一つで、筆者は、この先何年経とうと、繰り返し、あの、突如きらめきを顕すまばゆい光を思い起こすだろう。
それを聞く同僚は、家族との葛藤を抱えつつも、如才なく、自分の行きたい方向へと環境をマネージできる人間として描かれている。その意味で彼はティピカルには「劇的」ではないのだけれど、実は、「劇的でない人」が舞台に乗っているということはとても大事で、同僚役の若い役者は、その役割を十二分に理解した、素晴らしい演技を見せる。
一方で、引きこもりの弟である。髪型にとりつかれて社会へのとりつくしまを無くしてしまったように思われる弟ではあるけれども、彼の周囲の、とっちらかった原色の絵の具が生硬にぶちまけられたような暮らしの中から、ラスト、すーっと、白色光が一筋差し込んで、空間が凪ぐ。それもとても美しかった。思わせぶりの感動的な台詞や音楽や後光が一切無かったのも好もしかった。希望というものが目に見える瞬間があるとすると、それは、思わせぶりの中にではなく、目を凝らさないと一瞬で消えてしまう一筋の光の中にある。その瞬間をきちんと舞台に載せてくれた作者・演出・スタッフ・役者に、心から感謝する。
ついでに言うと、この、「裂け目」と「日常」の行ったり来たりは、実は同じ日に同じ劇場の別の階で上演されていたCaryl ChurchillのEscaped Aloneでは、もっと直截に、暴力的に提示されていて、かつ、素晴らしい芝居で、だから、この日、この二つの芝居が同時に上演されていたRoyal Courtは、またとないほど幸福な時間を迎えていたはずで、そこに居合わせた筆者もとても幸福なときに居合わせた、ということになる。それは、芝居がはねた後にバーで水を飲んでいたSoperが、「あ、Carylが帰っていくよ!」と、その偉大な劇作家の後ろ姿を指して言ったときにも、ちょっとだけ感じたことではある。
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